939話 イベリア紀行 2016・秋 第64回

 生ハムの日々


 考えてみれば、スペインでは毎日のように生ハムを食べていた。日本では高いし、あまりうまくないものも多いので、この機会に存分に味わいたいと思ったのである。マドリッドで生ハムを食べ歩いてわかったことは、マドリッドの生ハムは、観光客の注目度でいえば、札幌のラーメンやジンギスカン、福岡の明太子以上の観光名物になっている。私のように、マドリッドに来たら生ハムを食わずに帰れようかという観光客ばかりなのである。我が安宿があるソロ地区だけでも、Museo del Jamón(ハム博物館)という名の生ハム専門店が何店舗かある。ハムを売るだけではなく、その場で飲み食いできるバルでもある。そこが連日、大混雑なのである。スペインで生ハムを食べるのは、じつにたやすいことなのだが、スペインのハム事情を知るのはなかなかに難しい。
 日本人が生ハムと初めて出会うのは、「生ハムとメロン」という高価な前菜だった。「噂を聞いたが、実際に食べたことはない」という私のような貧乏人も少なからずいたと思う。
 現在、日本の普通のスーパーマーケットでも生ハムは買えるが、精肉のように水分が多く、風味に欠けるものが多い。スペインで食べる生ハムは乾燥していて、濃い赤い身に白い脂身が見える。超薄切りの、あの生ハムの食感を何かに例えるのは難しいのだが、あえて考えれば、ビーフジャーキーを超薄切りにした感触だろうか。高いカネを出せば、日本でも濃い赤色の肉に真っ白な脂肪が入った生ハムを買うことはできるのだが・・・。
 スペインでも、生ハムは安い物ではないが、一度に大量に食べるような食品ではないので、誰でも食べることはできる価格だ。
 生ハムのもっともふつうの食べ方は、ボカディージョbacadilloだろう。Bocaは「口」で、そこから派生して、bocadoで「軽食、スナック」の意味になり、bocadilloは通常、サンドイッチをさす。スペインのサンドイッチは、小さなバゲット状のパンに何かをはさむスタイルのものが多いが、すでに書いたように、スーパーマーケットなどでは食パンのサンドイッチもある。ついでに書いておくと、アルゼンチンのスポーツクラブであるボカ・ジュニアーズのボカも同じ単語で、こちらは「河口」の意味で、地名のラ・ボカ地区に由来する。
 ボカディージョなら、生ハムをはさんだものでも数ユーロだから、軽い昼飯くらいにはなる。カフェやバルのカウンターに山積みして売っている。サンドイッチにしない場合は、サラダなどの上にのせるか、薄切りを皿に盛ってつまみにする。基本的には生のまま食べるようだ。
 生ハムのボカディージョをいろいろな店で食べて、そのたびに思うのは、「工夫をしない」のがスペインらしいということだ。例えば、トマトやバジルのソースをパンに塗るとか、野菜を挟むとか、味と香りと歯触りに、何か工夫を凝らそうということは一切考えない習慣なのだとわかった。いろいろな具を挟むベトナム式サンドイッチのようなアレンジをしないのだ。テーブルにコショーもない。味は、生ハムの塩味だけだ。パンと生ハム、それだけだ。なにも加えない。それがスペイン式だ。
 たった1軒だけ、ほんのちょっと手間をかけてくれた店があった。私が注文すると、店員か店主(若い女性だった)はカウンターにのせてあるボカディージョを手にとり、生ハムにオリーブ油をちょっとふりかけ、オーブンに20秒ほど入れてから、私に差し出した。これだけの手間で、格段にうまくなると、外国人である私は思うのだが、スペイン人は「何かを、ただはさんで、そのまま」でいいらしい。
 
 生ハム博物館のほか、写真のように「ハム天国」という店にも出会った。左の写真が、味気ないサンドイッチの列。