949話 イベリア紀行 2016・秋 第74回

 4つの輪と四輪車


 今回の旅の第1日目のリスボン。横断歩道で立ちどまり、道路を走り去る自動車を眺めていたら、赤信号で止まった車のフロントグリルの「4つ輪」印を見て、「さて、この車、何だっけ?」と考えて、車名がまったく出てこなくて、ほんのちょっとあわてた。私は自動車免許を持っていないし、自動車のことなどほとんど知らないのだから、この車の名を思い出せなくてもそれほど落ち込むことではないが、それにしても、ありふれた車だ。これがモーリスとかケーターハムだというのなら、忘れていても一向に気にしないのだが、「ああ、あれ、あれ・・・」というもどかしさ。日本にいればネットで調べてすぐにわかり安心できるのだが、旅先だと調べようがない。
 なあに、すぐに思い出すさと思ったものの、思いだせないままスペインに入った。VWとかSEATとかFordなどと車に会社名や車名が書いてあればすぐわかるのに、車の後ろを見ても、「A1」とか「A4」などと書いてあるだけだ。車名を思い出すことに何の意味もないのだが、思いだせないことがもどかしい。
 リスボンのその日から10日ほどたって、ビルバオの路上。リスボンとまったく同じ状況で、横断歩道で信号が変わるのを待っていて、「4つ輪」印の車が通り過ぎ、トランク付近に車名が書いてないことはわかっていながら、ついつい注目して、Aという文字を見た瞬間、Audiという語が脳裏に浮かんだ。ああ、すっきりした。
 疑問は解けたが、マドリッドに来てからも、路上を眺めた。気がついたことは、以前は「スペインはSEATの国」という印象が強かったのだ。現在はフォルクスワーゲンの子会社になり、SEAT SAというのが正式名らしいが、もとはスペインの自動車会社だった。
 歩道から通り過ぎる車を見ていて気がついたもうひとつのことは、どの車種も印象が薄いということだ。どの車が多いということもなく、だからどこの国の車もそこそこ走っていて、印象に残る車はない。もちろん、車をよく知らない者の印象だ。この印象を確認してみようと、スペインの車種別新車登録台数のシェア―を調べてみたら、私の印象は事実だった。2015年1〜11月の資料では、シェア―上位3社は、ルノーVWオペルだが、どの社も8パーセント弱だ。セアトとフォードを加えてトップ5社だが、そのシェア―の合計は、35パーセントほどだ。シェア―4パーセント程度の会社が9社ほどある。トヨタ、日産、ヒュンダイ、キア、アウディー、メルセデスなどのシェア―がほとんど同じなのだから、スペインの自動車観察はおもしろくない。
 ごくたまに、赤いマツダ車を見かけることがある。好意の目で見ているからだと批判されるかもしれないが、マツダ車は、他車を圧倒して美しい。マツダのテレビコマーシャルをよくやっているが、シェア―は2パーセントに届かない。
 スペインをバスで長距離移動していると、バスを追い抜くバカ息子車(フェラーリのこと)に出会うかと思ったが、そういう体験はほとんどなかった。唯一の例は、リスボン郊外でポルシェが抜いて行ったことだ。私がのったバスルートに関して言えば、高速道路は90から130キロくらいの速度制限があるものの、運転手は100キロを超えることはなかった。私は常に最前席に座り、運転席を見下ろしていると、速度計が見える。100キロで走るバスを抜いて行くのは、小型トラックや大衆車だ。高級車は、田舎の高速道路を走っていない。
 散歩をしているときの頭脳は、半分は周辺の景色を眺め「この建物は何だろう」などと考えているのだが、残りの半分は過去の思い出や想像や妄想と遊んでいる。そんなある日のこと、「世界でもっともすばらしい車は何だろう」と考えた。ヒマつぶしの空想である。私の好みで選ぶのだから、決め手はデザインだけだ。答えはすぐに浮かんだ。ワーゲンバスだ。1967年まで生産されたT1がベストだが、79年まで生産されたT2でも可。1970年代に、ヨーロッパやネパールなどで旅行用に使っているのを見ている。乗ったことは1度しかない。ナイロビからモンバサへヒッチハイクする日の朝、同じ宿の若者に郊外まで乗せてもらった。マドリッドを散歩しながら、ナイロビの早朝を思い出している。思い出と遊んでいるから、いつまでも散歩をしていて飽きないのだ。