960話 イベリア紀行 2016・秋 第85回

 最終回 この水ボトルをバッグに入れて


 スペイン最後の朝、6時起床。外は真っ暗で、早朝ではなく深夜の景色である。街の中心部から空港に行く方法はいくつかある。いつもなら地下鉄でも簡単に行けるのだが、このコラムで何度か書いてきたように、最寄りの地下鉄の路線は下事中だから、運行している線を使うと、乗り換えがえらく面倒になる。乗り換えに便利な地下鉄駅まで歩くか?
 観光案内所でそういう話をすると、「シベーレス宮殿まで歩いて行ってさあ、そこからバスで空港に行くことにすれば、安くて簡単だよ。これがベストだね」(異様になれなれしいしゃべり方をする若者だった)というので、そのアドバイスに従って、黄色い街灯が印象的なマドリッドを10分ほど歩いた。深夜の散歩のようだ。キャリーバッグを使う旅だと、こういう徒歩移動が煩わしいのだが、私はショルダーバッグを使っているから、軽快に歩ける。
 バスはすぐ来て、30分くらいで空港に着いた。5ユーロ、600円ほど。
空港のカフェテリアの朝定食は、クロワッサン、コーヒー、オレンジジュースで6.95ユーロだが、最後のあがきで、いつものように生ハムのサンドイッチとカフェ・アメリカーノ9.05ユーロにする。これでしばらく生ハムが食べられなくなるのかと思ったら、ちょっと高いくらいいいかと思って注文したのだが、場所柄、安物に高い価格をつけている。
 バッグからペットボトルを取り出した。この青いボトルはどこかのバルかレストランで出てきたものを水筒として使ってきた。スーパーなどで1500cc入りの水を買い、宿を出る前にこのビンに水を入れて散歩に出た。それが毎朝の儀式のようなものだった。このビンは、青くてきれいということのほか、プラスチックが厚くて丈夫だから、毎日バッグに入れて持ち歩いても、なんら心配ではない。散歩の途中、バッグからこのビンを取り出して水を飲み、ひと休みしてまた歩き始めた。そういう毎日だった。
 愛用のこのボトルは、空港で没収されるから、この旅最後の写真として撮影し、中の水を飲み干し、ごみ箱に捨てた。やむを得ぬ理由で友を捨てるようで、なんだか、ちょっと悲しくなった。スペインとの別れである。


 帰国してすぐに旅の話を書き始め、14万字ほどの文章(400字原稿用紙350枚分)をひと月ほどで書いた。書きながら、思い出とともにもう一度旅をしていた。資料を読んだり、写真で確認したりしていたから、現実の旅以上に細部に入り込んでいたことも多々ある。こうして書きためた文章をブログに載せるちょっと前に精読して、細部を確認し手を入れながら3度目の旅をした。イベリア半島の旅は、まるでうたた寝をしていたかのような短い時間だったが、その旅を文章にしようとしたら85回分の長い物語になってしまった。そのくらい楽しい時間だったということだ。昨年秋から、いままでずーと長い旅をしてきた感じがするから、リスボンポルトも、はるか昔のことのように思える。
 この旅物語を全部読んだ人はごくわずか、おそらく5人くらいしかいないだろうが、私の道楽に付き合っていただきありがとうございました。

 おまけ 帰国してから、ひと月ほどたったころ、近所のスーパーでセールをやっていた水が、なんと青いボトルのこの水だった。ウチは青山でも六本木でもない。「非高級住宅地」だ。輸入品の水など扱わないスーパーなのに、唯一の例外として、スペインの水を売っていたのだ。この水は、SOLAN DE CABRASといい、レアル・マドリードの公式ウォーターだそうだ。日本で売り出したものの、売れなくて近所のスーパーで安売りをしたのではないか。売値は、スペインと同じだった。売れたのかどうか知らないが、数日でこのボトルは姿を消した。
http://www.the-premiumwater.com/solan.html?gclid=CL-mnOat5NICFUhwvAoduroBeQ