962話 大阪散歩 2017年春 第1回

 大阪へ


 ちょっと大阪に行ってみようと思った。2泊3日の旅行者よりはほんのちょっとでも腰を落ち着けて、時間の許す限りじっくりと、大阪を散歩してみたいと思った。
 大阪に初めて行ったのは1歳児の頃だから、その当時の記憶はまったくない。東京・深川から奈良の山奥に引っ越すときに乗り換えたのが、最初の大阪体験だ。それ以後、奈良で暮らしていた時代に何度も大阪に行ったし、奈良を離れてからも度々大阪に行った。東京の次になじみのある街のある大阪だが、いままで真正面から対決したことがない。長年住んだバンコクは別にしても、台北ハノイや、バルセロナマドリッドほどにも、大阪と付き合ったことがない。
 気になっている大阪に行こうと思ったものの、「よし行くぞ」と最終的な決心がついたのは、交通と宿泊の事情がわかったからだ。LCCを使えば、新幹線よりもはるかに安く行ける。羽田・伊丹は割高だが、交通に難点があるふたつの空港を結ぶ成田・関空路線から安い便を選べば、新幹線往復料金の3分の1ほどの料金で行ける。後で詳しく書くが、大阪の宿泊料金も安い。
 大阪は日本の異郷だという認識が半分はある。つまり半分は虚飾だということだ。マスコミで取り上げられるような、下品で、おっちょこちょいで、カネカネといつも考えていて、土足で人の心に踏み込むずーずーしさと、やたらに笑いを求め、女は若くても若くなくても派手で、アメちゃんを持っているおばちゃんと、ヤクザのような男と通天閣と、お好み焼き定食と、B級グルメの天国で、ふたりいれば漫才が始まり・・・といったステレオタイプの大阪は、「当たらずとも遠からず」と言えるのは半分以下だろうと思っているという意味だ。
 大阪人の特徴のひとつは、偽悪趣味であり、偽アホ趣味である。上に書き出したステレオタイプの大阪イメージは、実像とはかけ離れた過剰表現だということは大阪人自身わかってはいても、「そうそう、大阪では・・・」とさらに盛って(大げさに言って)、笑おうという性癖がある。そういう私の想像は、大阪ではすでに言い古された指摘らしい。「大阪には大阪だけの文学的伝統があり、膨大な文化の蓄積がある」にもかかわらず、大阪は「『お笑い』『下品』『醜悪』という東京好みのイメージにのっかって、自分たちをおとしめているだけではないか・・・」と書いているのは作家芦辺拓、「大阪の文学」(『大阪力事典』橋爪紳也監修、創元社、2004)収載)というコラムの一節。
 偽アホ趣味の例をあげれば、テレビ番組「秘密のケンミンSHOW」は大阪の読売テレビの制作だから、大阪がわかっている人たちが作っている番組だ。しかし、東京マスコミのイメージどおりの「大阪」をおもしろがって放送している。まるで大阪全域が「新世界」(通天閣があるテーマパーク的街区)であるかのような構成で、「大阪人はこんなに変、奇人変人ばかりなんですよ」という情報を垂れ流している。そういう行為を、大阪人自身も笑っているのだ。だから、そのイメージに合わない大阪は排除される。思慮深い大阪人や無口な大阪人は、形容矛盾にされてしまう。「大阪イメージは局地的」という話題は、私が知る限り、過去に1度だけあった。
 偽アホ趣味とはかなり違うが、細野晴臣大滝詠一たちの「エキゾチック・ジャパン趣味」というのがある。西洋人、主にアメリカ人が勝手に思い込んだ「フジヤマ、ゲイシャ的ニッポン像」を、日本人自らやってみて笑うという企画だ。真正面に日本音楽を取り上げるのではなく、アメリカ人になった気分で日本音楽に手を出すという屈折した態度だ。例えば、細野晴臣のアルバム「泰安洋行」。
https://www.youtube.com/watch?v=zJaZ1K1b0O0 
そのあたりも踏まえて、ちょっと大阪を覗いてみようかというのが、今回の旅のたくらみである。