993話 大阪散歩 2017年春 第32回

 雑話集 その4


●大阪育ちのグラフィックデザイナーの日下潤一は、『大阪呑気大事典』で「生玉さん」の項を、こう書いている。「正式には生國魂神社。生魂さんとも書く。しかし、生玉といえばホテルだったので、一度も参ったことがなく、神社であることも後になって知った。ミナミでひっかけた娘を、如何にしてこの上町台地のホテル街へ連れてくるかが問題だった」。
 この短い文章で、ミナミ、神社、ホテル街、上町台地という要点がちゃんと入っていて、「さすが地元育ち」と感嘆した。私のようなよそ者には、こんな簡潔なコラムは書けない。
●旅先で見るテレビの天気予報は、日本国内でも外国でも、それなりにおもしろい。県内地図では、地形や文化圏でいくつかに分かれているといった地元情報は、旅先の天気予報で知った。愛媛県東予中予南予の3地域に分けら、それぞれの文化が違うといったことは、テレビで知った。だからローカルテレビがおもしろいのだ。
 大阪で見たNHKの関西地方の天気予報は地図が興味深かった。テレビ画面の関西地図は、左側(西側)は、鳥取、岡山、香川、徳島。右側(東側)は、福井、岐阜までで、愛知は入らない。関西とか近畿という範囲は、扱うテーマによってさまざまに変わる。
 ●半日を、大阪の韓国(朝鮮)で過ごした。鶴橋と御幸通(みゆきどうり)商店街を散歩したということだ。鶴橋はもう何度も散歩しているが、鶴橋駅周辺は迷路になっているので、散歩するたびに初めての路地に出会う。御幸通の方は、韓流ブームに乗っての町おこしのような感じで、にわか仕立ての学園祭のようだ。ホットクなどを売る屋台がある光景は悪くはないが、たまたま入った食堂の質も味も料金も「いーかげんに作った祭りの食い物」のようだった。東京の韓国人街である新大久保の廉価版のような通りだ。その点、鶴橋は時代の風格があり、浮ついた雰囲気はない。

●初めて鶴橋に足を踏み入れた時のことはよく覚えている。1975年の春だった。沖縄の帰りに鹿児島からのんびりと北上して、また大阪に来ていた。街を散歩していたら、知り合いの芸人が出演する催し物のポスターが電柱に貼ってあった。偶然にもその日の夕方にやる会で、会場は鶴橋の劇場だった。駅の国鉄路線図で「鶴橋」の位置を調べた。その当時から異文化関連本は読んでいたから、鶴橋が「朝鮮人街」だということは知っていたが、足を踏み入れたのはその時が最初だった。そこは、韓国だった。そのころはまだ現実の韓国を知らなかったが、とても日本とは思えない光景だった。まだ、アーケードはなかったと思う。路地の両側には、テントを張った店にキムチを売る店の赤色が広がり、ゆでたブタの頭を売っていた。ワクワクする異界だった。
 知り合いの芸人は、西条ロックといった。西条凡児の弟子で、ギター漫談家。ラジオの深夜放送をやっていたので、私と同世代の関西人には多少は知られた存在らしいが、私はまったく知らない人物だった。1974年秋に東京に遠征し、路上ライブをやっていたときに知り合った。ちょっと話をすると、東京で行きたい場所がいくつかあるというので、私が案内役を買って出た。それから数日間、山谷、東大本郷、原宿にあった雑誌「話の特集」編集部などに一緒に行った。それから半年後に大阪で再会することになったのだ。会のあと、誘われて食事に行った。ロックさんを誘ったのは香川登志緒、「てなもんや三度笠」の作者として知られる人物である。ロックさんは「米朝は許せん!」などと叫び、香川さんは、「それはあんたの誤解や」などとなだめ、私は焼き肉をつまみながら、ふたりのやり取りを黙って聞いていた。香川さんの隣りに座り、やはり黙ってやりとりを聞いていた若者は、落語家になって5年目の桂べかこ、現在の桂南光である。
 その後、読売テレビの「11PM」でロックさんの姿をときどき見かけたが、インターネットの時代に入って、彼の死を知った。