997話 大阪散歩 2017年春 第36回

 賀名生へ その3


 たえちゃんと初めて会ったのは互いに1歳のときだから、もちろん覚えていない。東京の池袋で生まれて深川に引っ越し、1歳を過ぎて奈良の山奥に住むことになった。建設会社に勤める技術者である父が、ダム工事の仕事に就いたからだ。住むことになった家の前に郵便局があり、その隣に局長さんである「竹原のおっちゃん」の家があった。その竹原家の娘がたえちゃんで、私と同年齢。そのうえに兄のハチローちゃんがいる。
 竹原家と前川家は親密な付き合いがあった。父が大阪の病院に入院した時は、竹原のおっちゃんがわざわざ大阪まで見舞いに行ってくれた話は、このブログの967話に書いた。
 父の入院の後、母も長期入院することになり、前川家の子供たちはしばらく竹原家に預けられることになった。親戚の人が賀名生にやってくるまでの数日間、竹原さんちの子供にしてもらったのだ。父の姉が我々を世話をするために、岩手から奈良の山のなかにやってきた。新幹線どころか、まだ蒸気機関車が走っていた時代の大旅行だから、おばさんの旅は大変な苦労だっただろうが、事情がよくわからない私は、いつものように竹原さんちで遊んでいた。
 奈良の仕事が終わると父は日本各地の現場へ単身赴任することになり、父のいない家になった。川での釣りや水泳は、竹原のおっちゃんとハチローちゃんが教えてくれることになり、川遊びのあとは子供たちみんなで風呂に入り、そのまま夕食を食べ、母が迎えに来るまで竹原さんちの子供だった。キャッチボールは怖いから、おっちゃんとハチローちゃんがやっているのを黙って見ていた。キャッチボールを一度もやることなく、私は成人した。
奈良から千葉に引っ越すときは、カネがないので、奈良の家を移築した。新しい材木を買うカネをできるだけ節約するために、奈良から資材を持っていくことにしたのである。子供たちはそういう事情をまったく知らないから、ある日の夜、ウチに屈強な男たちが突然やってきて、子供たちがおののいているうちに、父と一緒に家を壊し始め、半分壊した翌日、竹原家に引っ越し、家が消えた。父もトラックで去った。そして、母と子が、住み慣れた村を離れた。
 こうして考えてみれば、いつも竹原家にお世話はなっているだけで、お世話したことなどなにひとつなかったことに気がつく。我が家は、竹原家に恩がある。
 再び賀名生を訪れたのは、中学生になってからだ。またしても、竹原家に泊めてもらった。ついさっきまで、「あれは高校1年生だったなあ」と思い込んでいたのだが、小学生時代の元級友を訪ねて、夏休みの登校日にたえちゃんといっしょに中学校に行ったのを今思い出した。中学校に行ったが、知っている顔はほとんどなかった。小学校低学年の子供の行動範囲は狭く、仲良くしていたのは近所の子供たちだけで、そのうちの何人かは私が賀名生にいるころに引っ越したので、近所の友達の記憶も薄れていた。この村は、ダム工事が始まって人口が急激に増え、工事の終了とともに減っていった。我が家もそのうちの1世帯だった。
 中学時代に賀名生に行ったのは、当時、京都にいた父の招待だった。おそらく、夏休みだから子供たちにちょっとした旅行をさせてやろうという心遣いと、父親の仕事を見せたいと思ったのかもしれない。そして、父も工事関係者だった東海道新幹線に乗せてやろうと考えたのかもしれない。奈良の仕事を終えた父は、一時期愛知県で新幹線の工事をしていたことがある。新幹線の開業は1964年で、我々、前川家の子供たちが乗ったのは66年だった。
 京都駅の新幹線に近い出口、八条口の改札で父が待っていたのを覚えている。そこから車でどこかに行き、事務所兼住宅に行った。姉の記憶では、その当時千里ニュータウンの工事をしていたというのだが、それなら京都駅で降りた理由がわからない。親不孝極まりないと思うのだが、当時の父の仕事現場に行っているのだろうが、まったく覚えてない。その現場どころか、父の仕事にまったく関心がなかった。前川家の子供たちは、一刻も早く工事現場を離れ、懐かしき賀名生を再訪したいと思っていた。
 賀名生は、私たちが住んでいた家がなくなった以外、何も変わっていないようで、じつは大きな変化があった。竹原のおっちゃんが亡くなっていた。もちろん訃報はすでに知っていたが、いつもおっちゃんが座っていた席に陰膳が据えられていた。もうおっちゃんがいないのだということを確認した。ハチローちゃんも、高校進学のために村を出ていた。竹原家には、おばあちゃんとおばちゃんとたえちゃんの3人きりになっていた。
 その後、たえちゃんとハチローちゃんは、ともに京都の大学に進学し、私が西に旅する時は京都に立ち寄ることが何度かあった。
 ある時のこと、手紙で待ち合わせの日時を決めていた場所に行くと、たえちゃんが「きのう、市電に乗ってたでしょ」と言った。四条だったかどこかを歩いていたら、目の前を通る市電に私が乗っているのを見つけたのだという。あの時代、「市電廃止反対!」の張り紙や幟が立っていて、市電最後の時代を迎えていたという光景とともに、「あの頃の京都」を覚えている。いい時代だったと思う。京都から市電が完全に消えたのは1978年だった。京都の市電は懐かしいが、それほどよく利用していたわけではない。今と同様に、乗り物を使うより、歩く方が好きだからだ。