999話 大阪散歩 2017年春 第38回

 賀名生へ その5

 2017年の春に大阪に行こうと思った理由は、たえちゃんとは関係ない。いつものように、どこかおもしろそうな場所を探していて、台湾かベトナムかと考えているうちに、ふと「大阪」がひらめいただけだ。「大阪に行くことにしたよ」と、神戸に住んでいるたえちゃんにメールを送ると、しばらく返信がなかった。数日後に、「入院しているので、返信が遅くなってごめん」という返事が来た。「どこで会い、いっしょに何をするか希望はいろいろあるけれど、体調が心配で・・・。体調が良ければ、家族そろってハワイに行こうかと計画しているんだけど・・・」という内容だった。
その後、メールで「退院した」という連絡のあと、私を連れていきたい関西散歩のプランが書いてあった。
 「どこに行ってもいい。どこにも行かなくてもいい。ただ会って、コーヒーでも飲みながら世間話をしているだけでいいんだよ」とメールを送った。すぐに、電話があった。「おかあちゃんやハチローさんにも会ってほしいけど、ねえ、いっしょに賀名生に行かない? もう、私が運転して案内することはできないけれど、愛(娘)が運転してくれるから、どう?」
 以前にも、「いっしょに賀名生に行こう」と誘われたことがある。愛用の通勤車、真っ赤なプジョー307カブリオレなら、賀名生まで時間はそんなにかからないというお誘いだったが、私は鉄道で行くことにした。たったひとりで、懐かしの賀名生を訪れてみたいと思ったのだ。ひなびた土地に行くには、ガラガラの鉄道でさびれた駅に着くのが似合っている
 3月8日にまた入院する予定になっているので、前日の7日に賀名生に行くというスケジュールになった。阪神高速道路を走って来るから、泊まることにしている釜ヶ崎地区の近く、御堂筋線昭和町駅前にあるスーパーマーケット「ライフ」の前で10時に私を拾い、奈良に行くという手順を、大阪出発前に電話で決めておいた。
 当日朝、いつものように早く起き、新今宮から歩き始めた。待ち合わせに便利なように、地下鉄駅のそばということにしたのだが、時間がたっぷりあるのだから歩いて行った方がおもしろい。天王寺駅付近を撮影しようとしたら、シャッターが下りない。カメラに「電池が不足しています」という表示が出る。こういうことがありうると、昨年のスペイン、ビルバオで体験しているから、すぐさま予備の電池に取り換えたのだが、なぜか、これも電池残量ゼロの表示になった。カメラ屋はまだ開店せず、どうにもしようがなく、撮影は娘の愛ちゃんのスマホに頼ることになった。
 10時ちょっと前に、ライフの前に立った。白いプリウスが止まった。運転席に愛ちゃん、助手席にたえちゃんが座っていた。座席を倒して、寝るようにしている。「抗がん剤のせいで、帽子が必要になったのよ」と電話で言っていたように、ニット帽をかぶっている。顔は「やっぱり、ちょっとやせたか?」という程度だが、指が極端に細くなっている。エンピツのような指だった。半年前に東京の築地市場や、江戸東京博物館で「よみがえれ! シーボルトの日本博物館」展などに行ったときは、外見上は健常に見えたのだが、今は、残念ながら、誰の目にも病状の悪化がわかる。
しかし、後部座席に座っている私との会話は、いつものようにはずんだ。一方的にしゃべりまくるという人ではないので、話している限り、病人だという印象はない。ずっとしゃべっていたが内容のほとんどを覚えていないのは、いつものことだ。特になんということもない、とりとめのない話をしていて、その時間がなんとも楽しい話し相手は、そうそういるもんじゃない。
 昼頃に、梅の花咲く懐かしの賀名生に着いた。じつは、「懐かしの」というのは文学的虚構である。賀名生に来るのは20年ぶりだが、グーグルマップとストリートビューのせいで、旧自宅の現状がどうなっているかがわかるし、旧自宅跡から小学校までの道の両側が手にとるように見ることができる。だから、久しぶりにこの地に来ても、懐かしさはないのだ。
 車は、旧自宅跡のすぐ上の辻内さんちの前に止まった。辻内さんちの「ちかしちゃん」は姉と同学年、弟の「もっちゃん」は私やたえちゃんと同学年、ちかしちゃんの奥さんはたえちゃんとは同じ高校時代からの親友のさえちゃんという、いかにも田舎らしい濃密な関係だ。「できた嫁」として、さえちゃんの話はたえちゃんから何度も聞いているが、会うのは今日が初めてである。勝手口(大邸宅だから、通常は玄関を使わない)で、「こんにちは!」と声をかけると、家の奥から「ケン坊が来たん?」というちかしちゃんの声が聞こえた。60年前、私は年上の人たちから「ケン坊」と呼ばれていた。その記憶が一気によみがえってきた。考えてみれば、この辻内家に足を踏み入れるのは、おそらく1960年以来だ。辻内家に寄った後、今は誰も住むことのない竹原家にも足を踏み入れたが、幼いころに「とんでもなく広大」と思えた辻内家や竹原家の屋敷が、「並みの大きな家」に見える。
 さえちゃんは地元の名物柿の葉寿司を用意してくれていた。残念ながら、たえちゃんはひとかけらも口にできない。もう、通常の食事を、通常の量の十分の一も食べることは無理らしい。

 賀名生は梅の名所。ちょうど満開だった。この回すべて、撮影は伊藤愛ちゃん。