1000話 大阪散歩 2017年春 第39回

 賀名生へ その6


 「どこに行きたい?」とちかしちゃんが言った。時間があるから、どこにでも連れて行ってあげるといった。私は「とにかく、いろんな賀名生を見たい」といった。小学校低学年までしかいなかったから、村の全貌を知らない。村は川沿いにあり、私たちが住んでいたのは村の中心部だ。村一番の「街」なのだ。ウチのすぐ前は郵便局で、役場や農協もすぐ近くにある、小学校も中学校もすぐそばにある。医者も電気屋も米屋もすぐそばにあり、うちの前にはバス停もあった。村の中心地しか知らない「村のシティーボーイ」だから、山を知らない。村人の多くは山のなかに住んでいた。林業や梅や柿の栽培を生業にしていた。そういう家の子供は、河原から100メートルか150メートルも高い地にある家から山道を下って谷底の学校に行き、午後はその山道を登って帰っていくのだ。毎日が登山だ。あの頃、山に自動車が通れるような道はなく、自家用車を持っている家はこの辺では、まずなかった。自転車では山道は登れない。歩くしかないのだ。「町場」育ちの私には、山坂道で苦労している山人の苦労を知らない。人は、山のどんなところに住んでいるのか、その全貌を見たい。
 「じゃあ、でかけようか」
 ちかしちゃんの運転する古い黒のクラウンで賀名生のドライブが始まった。昔はかなりやんちゃだったというちかしちゃんも、今では落ち着いて黒のクラウンを乗るような人になったということか。ちかしちゃんも、もちろん孫がいるおじいちゃんで、私ひとりがまだ風来坊を楽しんでいる。
 車のなかでも、このあたりの山のなかの生活の話になり、そういう地で育った地元出身の有名人の話になった。俳優の尾野真千子である。彼女がテレビでよく「山奥育ち」というの話をしている。どんなところか想像はつくが、具体的にどのあたりなのかは知らない。
 「尾野さんちなら、知ってますよ。お母さんとは面識があります。あの辺りは福寿草の自生地だから、あとで行ってみます?」と辻内夫人のさえちゃん。
まずは、昔もよく行ったケゾインに寄った。地元ではそう呼ぶが、漢字で書けば華蔵院。公卿北畠親房(きたばたけ・ちかふさ 1293 〜1354)の墓がある。小山から、川向こうの山を見て、山肌で生きてきた人たちの生活を思う。今まで見たことのない風景だ。昔は深い森で、人家が見えなかったのか、それとも関心がなかったから見えてなかったのか。
http://www.digibook.net/d/d3d58ddfa19fba31b2262127aae8cf85/
 このケゾインのふもとには、南北朝時代のいわば南朝皇居があった堀家住宅が保存されている。堀家の屋敷を借りて、天皇の住まいにしたのだという。そして、堀家と竹原家は親族関係にあるそうで、「親戚の家は元皇居」という冗談を言って笑ったことがあった。ハチローちゃんの名前も、南北朝時代の豪族、南朝に縁がある竹原八郎に由来する。

 左下に見える集落が、私がかつて住んでいた村のなかの「町」。正面の山も、右に続く山も、昔は森でもあり、山のなかに多くの家があった。この写真で見える山の家は、それほど不便な場所でもない。山里は和歌山方面にまだまだ続く

 左の山には梅の花が咲き乱れ、右の山を見れば山頂付近まで人家。

 対向車などまったく会わない山の道を進んでいると、眼下の川に記憶にある建造物が見えてきた。名
前は知らないので、今、その正式名を調べてみると、電源開発西吉野第一発電所というらしい。父は、この発電所建設のために、東京から奈良の山奥にやってきたのだ。資料によれば、この発電所の運転は、1956年だという。完成当時、父が運転する大型バイクの後部座席に乗って、発電所周辺を走った。4歳の記憶に残っていたのが、この建造物だ。父がかかわった建造物で、実際に見たことがあるのはこの発電所だけだ。ああ、なんと親不孝息子であることよ。
 「下に降りようか?」とちかしちゃんが気を利かせてくれたが、「細部の記憶はないので、いいです」と答えた。発電所はその姿しか覚えていないが、ダムに関連することはだんだん思い出した。たしか、ときどき放水のサイレンが鳴ったのではないか。父を頼って宮城からやってきた親戚の青年は、「暑い日は、仕事が終わるとすぐダムで泳いでいる。飛びこむと気持ちがいい」といっていたことなど、いろいろ思い出す。
 この発電所の工事をしている間は自宅から通っていた父は、1956年に完成してからは現場を転々と移動し、50歳を過ぎるころまでのほとんどを、単身赴任の技術者として過ごした。