1002話 大阪散歩 2017年春 第41回

 賀名生へ その8

 たえちゃんの寿命はもうそれほど長くはないことは明らかだった。だから、大阪を去る前に病院に行こうと思った。
 父の葬式の時にもっとも残念だったのは、戦友やかつての同僚や親戚など、酒好きの父なら朝まで盃を交わしたいに違いない人たちがこの場に揃い、しかし父だけがいないことだった。生きている間に会いたかった人と、死んでから会うことのやるせなさ。そんな気持ちをつい口にしたら、「なぜ病院に来なかったのだ」となじっていると受け取ったようで、親戚をおろおろさせてしまった。万難を排して葬儀に駆けつける余裕があるなら、生きているうちに、万難を排して会い、語りあえばいい。死者に花や線香を香典を献じるよりも、その人が生きているうちに、いっしょにお茶を飲んだ方がいい。
 診療の都合などがあるだろうから、いつなら都合がいいのかメールで問い合わせたら、見舞客が千客万来のようで、3月12日の午後に、神戸市須磨区の病院に行くことが決まった。翌週には退院するので、私が大阪にいる間だと、この日がちょうどいいということだった。
 大阪・神戸間の交通はその昔、少しは覚えたが、すっかり忘れている。新快速に乗った。車窓から、悲しいほどにきらきら光り輝く須磨の海が見えた。まぶしい。「しかし、海が見えていいのか?」と気がつき、車内の路線図をよく見れば、降りる予定の新長田駅には停車しなかったとわかった。考え事をしているうちに通り過ぎてしまったのだ。しかたなく明石まで行き、各駅停車で新長田に戻ることにした。明石駅を出ると、日本標準時子午線標示柱が左手に見える。かつて、姫路城から小野市のたえちゃんちに向かったときも、この塔を見ている。あのころを思い出していた。
 駅から病院までちょっと距離があり、バスがあるだろうと思ったが、いい天気なので歩いて行くことにした。「現在、病院を見上げながら歩いています」と、歩きながらたえちゃんにメールを打った。歩道に人なし。すれ違う車もなかった。
 窓側のベッドにたえちゃんがいた。窓の外は、3月とは思えぬほど強い陽がさしている。そのせいで、病室がとても明るい。
 たえちゃんは元気そうではあったが、座っていても、寝ていても、体が痛いといった。同じ姿勢をとっているのがつらいといった。小山であるケゾインに登ったり、山のなかの尾野真千子さんの実家に至る坂を上がったのがつい数日前だ。
 「病人だということをついつい忘れて、歩かしちゃってゴメン。つらかっただろうね」
 「あの日は、平らなところを歩くならなんともなかったのよ。でも、さすがにケゾインの階段は、『大丈夫かな』と不安だった。登ったけどね。しんどかったけど楽しかった。行ってよかった」
 病気の話を打ち明けられてから初めて、「しんどい」という言葉を聞いた。
私が大阪に着いてすぐ、賀名生に行くことにして、本当によかった。数日あとだと、車でじっと座っているだけでも、つらくて耐えられなかっただろう。まだ歩けるうちに、いっしょに賀名生に行くことができて、本当によかった。
 いつものようにとりとめのない話をしているうちに、長男の肇クン一家がやってきた。前回会ったときはまだ独身だったが、今は三児の父になっている。
 たえちゃんは、見舞い品の高級イチゴを孫たちにさしだした。「これ、食べて。あたしのきょうのご飯は、このイチゴが一個。それ以上は食べられないの」
肇クンは、ちょっと前までクアラルンプールの日本人学校の教師をしていて、たえちゃんは現地に遊びに行っている。その少し前に私もマレーシア旅行をしているので、しばらくクアラルンプールの話などをした。金正男暗殺事件のニュースで、見慣れたクアラルンプールの風景がたびたび日本のテレビに登場するといった話をした。昔行ったハワイの話もした。こうして話している限り、病人だとは感じなかった。
 「退院したら、今度は神戸で。神戸にも来てね。じゃ、また・・」と言うたえちゃんを置いて、肇クン一家とともに病院を出た。たえちゃんの体調が良ければ、3月に母、子、孫が揃ってまたハワイに行く計画を立てていたが、それが賀名生への小旅行になった。駅に向かう車のなかで、肇クンと阪神淡路大震災の時の話をしたが、お互いにたえちゃんの病気の話はしなかった。