1003話 大阪散歩 2017年春 第42回


 賀名生へ その9


 大阪の旅から戻ると、病院のたえちゃんにメールを送った。意識的に日常のスケッチのようなメールにした。大学の授業を終えた後の、講師控室の描写とか、電車から見た風景など、特に内容のないスケッチだった。とても暑いある日、「あまり暑いので、スーパーでついついチョコレート入りのアイス最中を買ってしまった」と書けば、「それ、大好物。でも、今はひと口しか食べられない。帰ったら、ひとかじりするだろうな」とすぐに返信が来た。
 「『神戸とお好み焼き』という本を読んでいたら、50代以上の神戸の人は、お好み焼きではなく、にくてんと呼ぶと書いているけど・・・」
 「わたし、一応神戸市民だけど、その名を聞いたことないなあ。長田あたりの人だけかなあ」
 「ねえ、ふと疑問に思ったんだけど、その昔、賀名生では納豆は売っていた?」
 「いつのことか、はっきりとは覚えていないけど、お父ちゃんが近くの店でワラで包んだ納豆を買ってきたことがあったよ」
 こんなメールも来た。
 「消灯は22時。20時が面会終わりの時間で、先ほど愛が帰りました。もうすぐ長い夜が始まります」
 このメールは、つらい。アジア文庫の大野さんが築地がんセンターから送ってきた最後のメールもこんな内容だった。
 私はヒマだから、夜中もメール遊びをやっていても構わない。少しでも気が晴れるならそれでいいのだが、疲れるだろうと思って、頻繁にはメールをしなかった。今なら、深夜の孤独をいやす雑談をすればよかったかとも思う。私も入院したことがあるから、深夜の病院の孤独と、病状や将来の不安や恐怖感はよくわかる。
この「大阪散歩」のコラムで、賀名生に行ったことを書こうかどうか悩み、その前に「竹原のおっちゃん」が出てくる大阪と高島屋のカレーの話(967話)を書き、4月16日にアップした。たえちゃんに読んでもらいたかった。しかし、そのころは、もう文章を読むどころではなかったと後から聞いた。
 4月20日早朝に、愛ちゃんからメールが来た。16日に退院して自宅に戻っている。3月半ばごろは、本人はいつもの自宅療養のつもりで退院の準備をしていたのだろうが、体調があまりよくなくて、退院が遅れていたようだ。予定よりもひと月遅れて、4月中旬の退院のちょっと前から急に体調が悪くなり、意識が朦朧としている時間が長くなり、東京から次男の亘クンも神戸に来ているという内容だった。最後の時を、自宅で過ごすことにしたのだろう。
 昼に愛ちゃんから電話があった。スピカ―フォンにするから、母に声を聞かせてあげてと言い、ハチローちゃんの声も聞こえた。
 それから数時間後にまた愛ちゃんから電話があり、「母が・・・」という声が聞こえた。それだけでわかった。たった今、ひとつの命が消えたのだ。
 「賀名生に行った話を、たえちゃんに読んでほしいとは思いつつ、なかなか書けなかったんだ。書きにくかったんだよ」と言った。
 「母のこと。奈良への旅のこと、ぜひ書いてください」
 愛ちゃんは、話しているうちに涙声になっていった。送ってもらった賀名生の写真を見ながら、ほんのちょっと前の、賀名生の梅林の旅の話を考えた。その話をすぐにアップすると、大阪話が続けられなくなるので、気楽な大阪散歩の原稿に手を入れつつ更新し、同時に賀名生とたえちゃんの話を組み立て行った。思い出がいくつもよみがえり、これは事実とは違うかもしれないと不安になることもあったが、その事実関係を教えてくれる人はもういないのだ。好き放題書けば、長くなるのはわかりきっている。思い出がとめどなく湧き出してくるから、思うままに書いていたら収拾がつかなくなる。できるだけ短くしようとしたが、それでも9回の話になった。どっちみち、何万回分書いてもひとりの人生を描くには充分ではないのだから、このくらいで許してもらおう。
 竹原妙子ちゃんとして生まれ、結婚して伊藤妙子さんになり、再婚して池本妙子さんになって寿命を終えた幼なじみの、たえちゃん。やっと歩けるようになった1歳児からの親友。この文章を読んでもらえないのが、残念だ。やはり、すぐに書くべきっだったか・・・。

 たえちゃんの愛娘が撮影してくれたこの写真は、たぶん生まれて初めてふたり並んで撮った最初の写真で、そして最後の写真となった。



                      (「大阪散歩2017年春」完)