1012話 『ゴーゴー・インド』出版30年記念、あのころの私のインド その3


 証明書写真


 当たり前のことだが、航空券を買う前に、役所での作業を終えておかなければいけない。今の旅行記は、現地に着いたところから始まるのだろうが、昔は日本を出るまでの作業がなかなかに面倒だった。手続き自体が大変だったということではないが、何ひとつ知らない分野のことなので、手探りで情報を集めていたのだ。
 外国に出るために必要な書類がいくつかあるらしいが、わからないことだらけだった。本を読んで勉強をしていたら(インターネットなどないのだ。身近に外国旅行経験者もいない)、パスポート、旅券、ビザ、査証といった専門用語が出てくるのだが、これがわからない。そういうところから、私の旅の準備が始まった。しばらく勉強したおかげで、パスポートと旅券、ビザと査証は同じものだとわかり、パスポートは身分証明書だということもわかったが、日常生活ではまったく縁のない「査証」という日本語がわからなかった。現在に至るまで、「パスポートとビザの世界史」といった本は、たぶんまだ出版されていない。「ビザ」という語の歴史は浅く、昔は、パスポートには現在のビザの意味もあった。だから、明治初めに日本を旅行したイザベラ・バードは、「日本のパスポートの有効期限が切れるから、更新をする必要がある」と日記に書いている。イギリス人が持っていた「日本のパスポート」とは、現在の言葉では「日本入国・滞在のビザ」である。
 海外旅行の本を読んで、パスポートとはどういうものか、少しはわかってきたが、パスポートの申請の仕方はどこにも書いていなかった。かなり探したが見つからないから、何もわからないまま申請窓口に行った。後から考えればわかるのだが、あの時代、普通の旅行者はツアー客だから、パスポートは旅行社が申請を代行し、当人は旅行社の社員に言われたとおり窓口に行ってパスポートにサインをして、受け取るだけなのだ。ツアーでなくても、業務渡航者なら、旅行会社が徹頭徹尾世話をする。はっきり言えば、普通の渡航者にとって、パスポート取得というのは、手数料は要るが頭は要らないという作業だった。すべての手続きは業者まかせというのが、常識だったのだ。
 私は、すべての手続きを自分でやることにしていた。インドやネパールの大使館に行って、ビザを取るのも、もちろん自分でやった。申請書の英語には馴染みのない単語が多かったが、なんとか書き込んだ。自分でやったから、交通費以外余計なカネはかからなかったが、わからないことだらけで手間がかかった。パスポートやビザの取得、航空券の手配から両替まで、旅行代理店がやる業務を、いつも自分でやっていたので、のちに、ひょんなことから一般旅行業務取扱主任者(2005年以降、総合旅行業務取扱管理者と名称が変わった)試験を受けた時、大いに役立った。私自身が、私の旅行業務代行者だったから、経験は豊富だ。たとえば、「入国の手順を答えろ」という試験問題があった。正解は、「検疫→出入国管理(イミグレーション)→税関」で、ひとりで旅したことがある者にはなんということもない問題なのだが、その当時、旅行の専門学校に通って、この資格を取ろうという若者(当然、外国に行ったことがない)や団体旅行ならしたことがあるという者は、丸暗記して受験に備えるしかない問題だ。
 パスポート用の顔写真も、私にとっては大事業だった。高校時代に着ていたワイシャツはあったが、ネクタイも、もちろんスーツも持っていない(実は、喪服以外今もスーツを持っていない。この年になっても、スーツを買ったことがないのだ)。顔写真用の服をどうしたのかさっぱり覚えていないのだが、たぶん、父のネクタイを借りて、百科事典でネクタイのしめ方を調べて、なんとか絞めて、上着は着ずに写真屋に行ったのかもしれない。あの頃は、上着はともかく、「ネクタイ着用」は証明書写真の規則だったと思う。
 写真が嫌いだから、顔写真撮影も大嫌いなのだが、パスポートを取るためには、当然拒否できない。撮影が不快なうえに高額だから、パスポートの次の更新の時は、ネパールで会ったカメラマンにシャツやネクタイを借りて、東京の彼のアパートで撮ってもらった。カメラは、ハッセルブラッドではなくマミヤ645だった。その次の更新は、やはり知り合いのカメラマンに事務所の白い壁を背に撮影してもらった。カメラは、私のオリンパスOM-2だ。顔写真を24枚撮ってもらい、それをサービス版で焼いてもらい、使うときに適当な大きさに切って使っていた。パスポートに、いわゆるスピード写真(証明写真自動撮影機で撮影した写真)が使用可能となるまで、いろいろ工夫が必要だった。
 そういえば、最初にパスポート用顔写真を撮ってもらった写真館は、スピード写真と入れ替わるように姿を消した。