1018話 『ゴーゴー・インド』出版30年記念、あのころの私のインド その9

 また旅へ


 1973年に初めて外国旅行をしたら、工夫次第で簡単にまた旅ができるという自信がついて、しかもいろいろ情報が集まった。「初めて」という壁を壊してしまえば、あるいは乗り越えてしまえば、旅は工夫次第でどうにでもなることがわかった。どのような旅をすれば、いくらくらいかかるかという目安もわかっただけでも、不安は薄れ、心強い。相変わらずカネはないが、少ないカネで旅する技術も、少しは身についた。
 霧に包まれていた「異文化世界」も、旅してみれば、風が吹いて霧が晴れたように景色がよく見えて、外国旅行そのものの恐怖感はなくなった。カネさえあれば、世界のどこにでも行けるような気になっていた。インターネットはもちろんガイドブックもない時代だから、旅行情報を持っていないということに不安はまったくなかった。旅行の情報は、実際に旅した人だけが持っているもので、自分だけが知らないという孤立感はなかった。旅行情報など、どの旅行者もたいして持っていないのだ。今と違って、「今夜泊まる宿の予約をしていない」ことに不安を感じている旅行者などいなかった。
 英語は心配していなかった。「なんとかなるだろう」と思っていて、そのとおり「何とかなった」。高校時代に何人もの外国人と話をしたことがあったから、自信はないが不安もなかった。R音が強いインド英語には参ったが、慣れればアメリカ英語よりはよほど聞きやすかった。
 だから、私の旅の問題点は、あまりに乏しい旅行資金であり、それに輪をかけて乏しい教養だった。旅行先のことをなにひとつ知らなかった。帰路寄ったタイでは民主化を求める学生運動が激しく起きていたが、そういう動きを知ったのは、帰国してからだ。私はあまりにも無知だった。旅行は体の移動だけで、頭は取り残された。旅先で見たものを解析できる教養がなかった。
 帰国したら、また工事現場に戻ると同時に、図書館や古本屋に通い、世界の政治経済文化などの勉強をしつつ、次の旅の計画を立てた。最初の旅は不安だったから、往復切符を買ったのだが、もう不安はない。2度目は、成り行き任せの片道切符の旅にしたかった。目的地は、東南アジアに決めた。インドネシアのバリ島に至る長い旅だ。
 夜行列車で鹿児島に行き、船で沖縄経由で台湾に行けることはわかったが、台湾を出る船便が見つからない。台湾から飛行機で香港に行くなら、横浜から香港に行く船を探した方がいい。あのころ、船便を探していたのは、飛行機よりも船の方がはるかにおもしろいということもあるが、飛行機代があまりに高かったから、「飛行機か、船か」という選択の幅があったのだ。今でも、大阪から韓国に船で行けるようだが、片道の船賃は、往復の飛行機代よりもはるかに高い。沖縄の石垣島と台湾を結ぶ航路があるが、東京からだと石垣に行く交通費を考えたら、大いにためらう。東京・台北LCC料金との差はとんでもなく大きい。航空運賃が桁違いに安くなったぶん、船旅がかなり高価な遊びになった。
 横浜から香港にソ連船が出ているという情報を得た。1974年の夏だった。雑誌などに出ていた旅行記から、船便の情報を得て、船会社の電話番号を探し出し、会社に実際に行って運航スケジュールを見て、切符を買った。こういうことができたのは、幸運にも私が東京周辺に住んでいたからだ。大阪や京都を含めた「地方」では、旅行情報を得ることも難しいし、たとえ情報を手に入れても、船会社や大使館や各国観光局を回って歩く時間的・金銭的余裕はなかなかない。旅行報告会とか旅行説明会といった小さな集まりもあったが、東京周辺に住んでいないと、そういう会の情報も入らない。インターネット以前は、この情報格差はとてつもなく大きい。
 1980年代に入ってからだが、「外国に行きたい!」と思った地方在住のある男は、東京で就職している高校時代の友人のアパートに居候をさせてもらい、渡航先関連の本を買い、観光局で情報を集め、格安航空券会社を巡り、いくつかの大使館でビザを取るという日々を過ごしているうちに、かなりのカネを使ってしまった。宿代はタダでも、実家を出てから実際に日本を出るまでの間に、東京でけっこうなカネを使ってしまっていた。そんな話はいくらでも聞いた。
 そういえば、その昔はパスポートを取るには県庁所在地以外では窓口はあまりなく、農山村に住んでいたら、まずはパスポートを手に入れるだけで、長い県内旅行をすることになったのかもしれない。