1019話 『ゴーゴー・インド』出版30年記念、あのころの私のインド その10

 船で香港へ


 青山のビルのなかにあった東洋共同海運で、香港まで行くソ連船の切符を手に入れた。バイカル号と言った。この船会社の名前を「共同海運」と覚えていたのだが、本当にそれでよかったのかを確認したくて昔の旅行ノートを取り出したら、ソ連船の1974年スケジュール表と料金表が出てきた。研究者とマニア(もの好き)のために、ちょっと紹介してみよう。
 ソ連極東船舶公団日本総代理店の東洋共同海運で通常扱っているのは、横浜・ナホトカの便で、少ない月で2便、多い月では7便を運航している。年に4回、2月、7月、8月、12月には、横浜・香港便を運航していた。ソ連が香港にどんな用があったのか、中国となにか関係があるのかなど政治的なことはまったくわからなかったが、「船で日本を出る」という雰囲気が好きで、この香港線は3回、ナホトカ線は1回利用している。豪華客船ではないところが、私のような貧乏人にはちょうどよかった。
 横浜・香港線(天候状況が良ければ2泊3日、食事代込み)の運賃は、最高7万6000円、最低2万6600円。往復なら1割引き、学生1割引き。当時の航空運賃は片道5万6000円で、往復割引も学生割引きもないから、この船はヒマがある者には利用価値があった。ヒマはあるがカネがないという者と、とにかく船が好きという者と、自転車旅行者のように、荷物が多い旅行者が好んだ。
 ノートにメモがある。1975年は横浜・那覇・香港というルートで運航するというスケジュールだ。なぜ、こういうルートにしたのか調べてみれば、1975年夏は、沖縄海洋博が開催されるからだ。
 Royal Interosean Linesという会社のスケジュール表も、ノートに貼ってある。オーストラリアのアデレードから、シドニーなどを経由して、バリ、ジャカルタシンガポール、マレーシアのペナンまで運航している。表に運賃は書いてないが、ポート・モレスビーからバリの運賃が、156ドルと書き込みがある。たぶん、その料金だけ聞いて、「う〜ん」とうなり、オーストラリアには興味がないからいいか、と思ったのだろう。156ドルは4万7000円だ。バリに行った後、パプア・ニューギニア経由オーストラリアという旅は、カネのことを別にしても、今でもあまり魅力的ではない。いや、航海は魅力があるな。
 香港に行くソ連船のいちばん安い部屋は、2段ベッドが2台入った4人部屋だった。貧乏な私は、安ければ国内航路のように(あるいは関釜フェリーのように)、広い床があるだけの雑魚寝でもいっこうにかまわないと思ったのだが、最安クラスでも、部屋はあった。旅行者の多くを苦しめたのは、船内の、なんだかわからない匂いとペンキの匂いが入り混じった臭気で、船酔いを誘った。おまけに台風がふたつ接近していたので、小さな客船は木の葉のように揺れ、階段は四つん這いになって上がった。そのせいで、2泊3日の予定が、遅れて3泊4日の船旅になった。
 ソ連船で、生まれて初めて1日3食をナイフとフォークで食事するという体験をした。しかし、貧乏人のわたしにさえ「貧相だな」と思えるような粗食だったものの、わずかながら「西洋」を感じさせた。しかし、その粗食さえ、船酔いのせいで、食堂に必ず姿を見せたのは、私のほかふたりのアメリカ人など数名だけだった。このアメリカ人ふたりとは、バンコクで再会した。
 驚いたのは、修学旅行の高校生がいたことだ。のちに、日本の修学旅行史を調べたことがあるのだが、関係資料では日本最初の海外修学旅行はもっと後の時代だから、あれはどこの高校だったのか気にかかっている。