1021話 『ゴーゴー・インド』出版30年記念、あのころの私のインド その12

 ペナンでインドのビザを


 インド行きの情報をいろいろ教えてくれ船会社の社員が、「ビザを取ってください。乗船券を買うのはそのあとです」という。それはわかっているが、ペナンにインド大使館はない。ビザをとるには、クアラルンプールかバンコクに行くしかない。どちらも夜行列車で行く距離だ。しかし、チダンバラム号がでることで、大使館員がペナンに出張してきて、事務所を借りてビザを発給しているのだという。その場所まで、船会社の社員が連れて行ってくれた。
 机があるだけの部屋に、初老の男がいた。インド大使館職員だろう。前年にインドに行っているから、反射的に「ビザはいくらですか?」と値段を聞いた。料金を確かめずに買い物をしてはいけないという教訓は身についている。
男がいくらと言ったのか記憶がないが、結構高いと感じたので、「もうちょっと安くなりませんか」と料金交渉に入った。
 「本来なら、クアラルンプールまで行ってビザ申請をしなければいけないのに、今回私がここまで来ているんだよ。ここでとるのが嫌なら、クアラルンプールに行くかね?」
 わかったことはふたつ。相手はこちらの足元を見ている。そして、ビザ料金は、多分、この男のポケットに入るだろうと思われた。ビザ発行なんぞ、パスポートにスタンプを押してサインするだけだ。手軽にできる小遣い稼ぎだ。
 交渉はこちらから中断して、船会社に戻った。世話になっている社員に、「ビザ代を吹っ掛けられている」と訴えたら、「このくらいが相場だね」と教えてもらったので、個人営業の「臨時インド領事館」にまた行った。交渉再開だ。
 しばらく料金交渉があって、領事館は私に折れて、10リンギットになった。インドからネパールに行くかもしれないから、ダブルエントリー(2回入国可能)にしてもらいたいと行った。ビザスタンプを押して「single entry」と書かずに、「double entry」と書くだけのことだから、手間は同じだ。
 「それなら、20だ」
 「20リンギットとるなら、3か月滞在できるtripleにして」
 「OK」
 3回入国する予定はなかったが、言ってみたら、交渉成立してしまった。顔写真なし、申請書さえ書いたかどうか記憶がない。日本円にして2500円ほど支払って、その場ですぐにビザを「買った」。領事館事務所を出て、その足で船会社に行き乗船券を買った。
 船内で仲良くなったのは、帰省するインド人留学生と、インドの大学に戻るマレーシアやシンガポールの留学生たちだった。飽きることなく、しゃべっていた。まったく期待していなかったのに、船内の食事はわりとうまかった。食事代は乗船券代金に含まれているから、腹を空かす心配はなかった。この船で、初めてパラータを食べた。パイ状のパンだ。
 http://asiahunter.seesaa.net/article/391334284.html
 インドに着いてから、散歩をしていると、目はパラータを探していた。食堂の入口近くに陣取ったパラータ屋が、発酵してふわふわに膨張した小麦粉を練ったものを、油をまぶしながらひも状のものを丸めて円にしていくのを眺めていた。これを鉄板で焼けば、パラータの出来上がりだ。
 この船は、その後に火災にあったという噂を耳にしたが、詳しいことは何も知らない。今回調べてみると、次のようなことがわかった。インターネットがなければわからない情報だ。
 この船は、元はダンケルクで建造されたフランス船で、南米航路で活躍していたパスツール号だ。建造年は不明。1972年にインドの船会社(資料により、シッピング・コーポレーション・オブ・インディア説と、イースタン・シッピング・コーポレーション説がある)が買収して、シンガポールマドラス間の航路に就航したという。なんだ、私が乗ったたった2年前に、この航路に初就航したのか。もちろん、ほかの船もあったから、それ以前から航路はあった。1985年2月にインド洋上で火災を起こし、34名死亡。船はなんとかインドに戻ったものの、すぐにスクラップとなり、この航路の歴史も終えた。次の資料にそうある。そうか、1984年までは現役だったのか。この船の情報は、『地球の歩き方 インド』には載ってなかっただろうな。
 https://andamansaravanan.wordpress.com/2012/07/02/nostalgic-account-on-big-indian-ocean-liners-called-at-penang/