安宿を探せ、 観光案内所
カルカッタの安宿パラゴンの情報を、どうやって手に入れたのかという考察がまだ続く。
1974年の旅は、わりと日記を書いていたので、日記を取り出し、マドラスからカルカッタに着いた日を探す。なーんだ、ちゃんと書いてある。初めから日記を読んでいればよかったのだ。なんたる徒労。コラムを書くための演出で本の名をあげていったのではなく、本当にガイドを机に積み上げて点検し、このコラムを書いてきたのだ。そして、使った本を書棚に戻すと、本の下敷きになっていた日記の存在に気がついたのだ。マドラスからカルカッタに着いた日の日記。
「6時30分、カルカッタ着。驚いたことに、定刻の到着。ハウラー橋は壮観。Government Tourist Officeに行き、そのあとホテル探し。Paragonホテルにする」
たぶん、観光案内所に行って、地図をもらい(くれたかどうかの記憶はないが・・・)、安宿がある地域をおしえてもらい、路面電車に乗ってチョーリンギー通りを走り、サダル通り付近に来たところで電車を降りて歩いた。そんな記憶が今よみがえってきた。カルカッタにはあの時1度行っただけなのに、通りの名もボロボロだった路面電車も覚えている。こんなことを書いていたら、その路面電車を降りた場所の名も思い出した。インドなのに、しかもこのカルカッタなのに、まったく似つかわしくない名前、Esplanede(エスプラネード。海や川沿いの散歩道という英語)なのだから、覚えていたのだ。日記によれば、ハウラー駅からエスプラネードまで、路面電車代は13パイサとある。交通費には、まだ3パイサなんていう半端な料金が残っていたのだ。
インターネットはもちろん、ガイドブックもなかった時代の旅の情報先は、旅行者と観光案内所だったのだ。その時代を体験していながら、パラゴンに関しては活字資料から探し始めた。旅の感覚が、すっかりずれてしまっていたのだ。
ガイドブックがなかった時代、どこかの町に着くと、空港や駅やバスターミナルで観光案内所を探し、地図をもらい、可能なら安宿をいくつか紹介してもらい、そこへの行き方も教えてもらう。大使館や中央郵便局や航空会社などの場所を地図で示してもらう。初めて行った1978年の韓国で、ソウルの安宿を教えてくれたのは、金浦空港の観光案内所のおじさんだった。「安い宿を知りませんか?」と言ったら、机の引き出しをあけて名刺を取り出して、無言で私に渡した。空港からその宿までの行き方を教えてもらい、苦労することもなくたどり着いた。大きめの民家をそのまま利用した宿で、今ならゲストハウスというのだろう。客はすべて外国人だった。
考えてみれば、昨年行ったポルトガルやスペインでも、同じように観光案内所にたびたび足を運んでいる。スマホやパソコンを持っていないから、情報を集めに出かけるのだ。そこでいろいろ教えてもらい、今ならちょっと時間をもらえるかもしれないと判断したら、散歩中の疑問などを口にして、その国やその街の雑学を教えてもらったりする。
旅行者はそれ自体、もっとも重要な情報源でもある。その国の東西南北の諸都市や近隣諸国の情報を持っている。宿の中庭やロビーで旅行者たちがよく話をしていたのは、ただ寂しいからだけではなく、情報交換の場としても重要だったからだ。1970年代は、日本人旅行者はまだ少なかったから、誰かと話すとなると、外国語でしゃべるしかなかった。「英語は得意じゃない」などと甘えたことを言っている余裕などなく、旅を続けるためには、外国語をしゃべるしかなかった。英語が通じない国なら、フランス語や中国語やスペイン語でも、なんとしてでも通じさせる技術が必要だった。だから、『地球の歩き方』発刊以降、日本人旅行者の外国語力は急激に落ちたと私は思っている。同行者以外とは話をしない旅行者が増えていないか。スマホを使えば、いつでも日本と話ができて、日本語の資料が手に入る。日本人以外と接触する必要がないのだ。