1029話 『ゴーゴー・インド』出版30年記念、あのころの私のインド その20

 やむなく、続編を書くことに・・・  その2


 フランス郵船MMに乗って日本を出た人たちの旅行記は、私が買っただけでも自費出版のかたちで何冊かある。『カンボジア号幻影』(恵原義之、新風舎文庫、2005)は、1945年生まれの著者が1969年におもに南アジアを巡った旅行記。落ち着いた文体で、参考になる。『想い出の欧州航路 古き良き時代の航海日記 1967~1968』(寺尾壽夫・寺尾節子、文芸社、2007)は、東大病院の医師がドイツに留学するときの航海日記。1967年12月からひと月半の旅だった。こまごまとしたことが日記に書いてあるので、当時の旅行事情がわかる。そして、もう1冊。『愛しの貴婦人 ヴィエトナム号 ―1964年のフランス郵船極東航路定期船渡航記』(長谷川照子、新風舎、2003)があるのだが、この本は今姿を消していて、見つからない。アマゾンを見ると、最低でも2万1762円の値段がついているが、それほどの本じゃない。
 そうは思いつつ、あるはずの本がないと気にかかるので、ありそうな場所を捜索すると、おいおい、出てきたぞ。ちょっと前に大捜索隊を編成して探したにもかかわらず見つからなかった本、”On The Road Again”が出てきた(1026話)。こういうことがあるから、見つからなくても再注文しなかったのだ。
 すぐさま、気になっていた1962年のカルカッタ安宿事情をどう書いているか探したが、その記述はまったくなかった。ああ、徒労。
 さて、話は立松の旅のエッセイ集『僕は旅で生まれかわる』に戻る。インド旅行の話が出てくるのだが、よくわからない。時の表記がバラバラなのだ。「カトマンズへの道」(1987年発行「すばる」の原稿)という文章で、1971〜2年にインドやネパールに行ったと書いている。ところが、同じ文章で、「二十二、三年前のこの旅は・・」と書いている。1987年の23年前は1964年で、立松は17歳である。「インド混沌」という文章では、「私がはじめてインドにいったのは、二十二歳の時であった」と書いている。ということは、1947 年生まれだから、1969年か70年ごろということになるのだが、フランス郵船でタイに行った1969年の旅は、タイまで行くカネしかなかったと書いているから、インドには行かなかったのだろうなどと考えると、訳が分からなくなる。立松は、こういう時系列の話がきちんとできない人なのだろう。旅を繰り返していれば、いつ、どこに行ったという旅の歴史はいちいち覚えてなんかいられない。しかし、旅のことも書くライターなら、初めの数回の旅くらい、時期と場所は覚えているだろうと思うのだが。
 立松のインド亜大陸への旅が、1971年から72 年にかけてだった仮定して、話を進める。この時代、もはやフランス郵船MMはない。船で日本を出ることは可能で、ヨーロッパまで行く船はあったが、豪華クルーズ船だ。インドまで行く安い船はないから、立松は飛行機を使った。もはや学生ではなかったが、学生ということにしてもらい、羽田・バンコク・ラングーンそして、カルカッタかデリーに行く航空券を学割料金で買ったと書いている。それが片道切符だったか往復切符だったかはわからない。
立松は前回のタイ旅行と同じように、バンコクユースホステルに泊まっているときに、西洋人旅行者から「カルカッタに行くならモダン・ロッジ」という情報を得たという。この時のバンコクユースホステルはチュラロンコーン大学構内にあるといった情報は、おそらく「インターナショナル・ユースホステル・ハンドブック」で知ったのだろう。この私だって、初めてタイに行くときは、このユースホステル以外の安宿情報は持っていなかった。1993年にカルカッタを再訪した部分を「永遠の百円」から引用してみよう。
 「当時泊まっていた安宿モダン・ロッジにもいってみた。ドミトリールームと呼ばれていた大部屋のベッドひとつが、一晩三ルピーであった。南京虫の棲み家で、朝起きると腕が腫れて倍くらいにふくらんでいた」
 「一ルピーは公定レートで約四十円だったが、街にいくらでもいる闇ドル買いと交渉すると、約三十円だった。モダン・ロッジの一晩は約百円だったのである」
立松が再訪した1993年の宿代を聞いたら、日本円にすれば20年前と同じ百円なので驚いたと書いている。
 私は、1974年のパラゴンホテルのドミトリーが、「6か7ルピーだった」と書いたが、日記に間違って書いたのだろうか。モダン・ロッジがパラゴンの半額ということはないだろうから、ちょっと気になった。先に紹介した『カンボジア号幻影』の著者も、1969年にカルカッタでモダン・ロッジに泊まっているが料金は書いていない。
その時代のモダン・ロッジの宿泊料金を調べる術はないかなと考えて思い浮かんだのが、1971年の旅行記だ。
 旅行会社トラベルメイトが作っていたサイトの旅行記「田森君西へ」に、出ていた。
 http://www.travelmate.jp/tamori.htm#tamo_001のなかの、カルカッタの次の文章
 http://www.travelmate.jp/ryokoki/honbun/tamo_216.htm
 これで、1971年のモダン・ロッジのドミトリーが5ルピーだったことがわかった。だからと言って、立松の記憶が間違いとは言い切れない。モダン・ロッジにしてもパラゴンにしても、部屋によって料金の違いがあっただろう。このあたりの話は、天下のクラマエ師が詳しそうだ。
 「安宿事情とか部屋代なんか、どーでもいいだろ」と思っている人は多いかもしれないが、重要なのは部屋代そのものよりも、部屋代がいくらだったか調べていくことで、いくつもの資料を読み解くことなのだ。自分の知らない時代を、自分の想像力のなかに取り込む行為なのである。微を見て巨を想像するというのが、ライターである私が旅行記を読み解く基本である。紀行文学の鑑賞には、まったく興味がないのだ。
これで、インド話は本当に終える。誰がなんと言おうが、もうインドには戻らない。新資料が出てきても、知らん顔をしておこう。