日本の外国語教育史に興味があって、ちょっと調べたことがある。戦前の日本の教育制度は実に複雑で、容易には理解できない。小学校には尋常科と高等科があり、飛び級があり、予科があり、軍の学校があり、複雑怪奇である。旧制高校そのものについてもちょっと調べ、戦前期に教育を受けた者の教養を探ったことはあるのだが、高校生の旅行のことはあまり考えなかった。「伊豆の踊子」の高校生は、旅館に泊まるくらいのカネを持っていた。上海にあった東亜同文書館の「大旅行」と称する調査旅行の話は少しは知っていたが、これは調査であって気楽な無銭旅行ではない。
古本屋にあった『旧制高校物語』(秦郁彦、文春新書、2003)は、なんのひっかかりもなく、さて、困った。三省堂神保町本店の棚を巡り、ヤマケイ文庫のラインアップを眺めているときに、ひらめいた。そうだ、旧制高校の卒業生で、よく旅をして、文章を多く書いている人物がいる。その人が書いた本、『山をたのしむ』(梅棹忠夫、ヤマケイ文庫、2015)をすぐさま買った。梅棹忠夫(1920~2010)の山との自叙伝という構成の本だ。旧制中学・高校時代の山少年が大学生になると、モンゴルなど平地に興味を持つようになったことがわかる。これを「垂直志向から水平志向に変わった」と言っている。小山修三との対談で、大学生時代の話をこうしゃべっている。1940年代前半の話だ。
「ふしぎなことやけど、あの当時はどういうわけか、山岳部の学生たちはいっせいに大陸へ向いていた。各大学、みんなモンゴルへ遠征を出した」
梅棹は生涯山への関心は持ち続けたが、高い山に登ることだけを目的に外国に行くことはなかった。より高い山に登るよりも、異郷で調査する方がおもしろくなったようだ。
京都大学山岳部員だった梅棹の思い出話に、山小屋などでさかんに歌をうたったという話が出てくる。とくに、京大山岳部員だった西堀栄三郎が作詞した「雪山讃歌」は、部内でよく歌われたそうだ。
そこで思い出すのは、山で歌うといえば、歌と強く結びついているワンダーフォーゲル活動だ。あるいは、「放歌高吟」といえば、旧制高校、バンカラ、傍若無人という連想が働くのだが、いったいいつからインテリたちは大声で歌うようになったのだろうか。江戸時代から武士の放歌高吟があったのだろうか。根拠のない感想だが、高吟は江戸の匂いがしても、放歌は明治を感じる。放歌は、明治期に西洋から入った高等教育と深い関係があるのだろうか。西洋音楽が定着してからと考えると、放歌高吟は文明開化以降の新しい行為だろう。
例えば、『パーネ・アモーレ』(田丸公美子、文春文庫、2004)には、イタリアでは「高歌放吟の無頼漢の学生気質をゴリアルディアと呼び、社会的にも仕方ないと認知されている」とある。旧制高校生や大学生のバンカラは、ハイカラに対する「蛮カラ」なのだが、これもまた西洋の輸入だったのではないか。ちなみに、ハイカラというのは、high collar(高い襟)で、「高い襟のついた服」から、西洋風の事物や生活様式などをさす語として使われた。その反対語として誕生したバンカラも、実は西洋の若者文化のマネだったのではないかというのが、私の推測だ。
山登りの本などいくらでもあり、「山岳文学」といったジャンルもある。それにひきかえ、若者の旅の本は少ない。平地の旅など、感動などないじゃないかという意見があるだろう。それはわかるのだが、山と平地の旅の違いは、団体か個人かの違いかもしれない。登山は、山岳部や山岳会といった組織ができて、OBたちの活動もあるが、個人の旅行では、記録に残すことも少ない。ワンダーフォーゲル部は組織なのに、旅の記録が一般書として出てこないのは、部員とOBたちの力量の問題があるからだろうか。
無銭旅行の謎を探りたいのだが、やたらに食い散らかして、いくつもの宿題を残してしまった。自由気ままに旅する若者たちの系譜はまだ濃い霧に包まれているのだが、梅棹忠夫をもうちょっと探ってみたくなった。