1033話 ワンダーフォーゲルの事などから その4


 梅棹の文章を読んでいるとよく出てくるのが、「京都帝国大学にあった旅行部」というものだ。旅行部とは、実質上山岳部と同じようなものだったらしい。旅行部が山岳部になり、そこから探検部が分離独立をはたしたという歴史はわかるのだが、そもそも旅行部なるものがどういういきさつでいつ誕生したのか、そういった事情がわからない。京大関連の資料ではこの旅行部のことがわからないのだが、偶然にも、金沢の旧制四高の資料で次のようなことがわかった。情報源は、金沢大学医学部山岳部のホームページだ。
 https://kum3gaku.jimdo.com/history/
 山岳部の歴史を書いた部分を要約してみよう。
旧制四高には予科と医学部があり、予科には北辰会、医学部には十全会という学生教師の団体ができる。1989(明治31)年に、北辰会に「遠足部」ができて、医学部の学生もいっしょに「深谷鉱山などに出かけていた」とあるが、これは「深谷高山」の誤変換か? 「遠足」の内容はワンダーフォーゲルのような山歩きなのか、山登りなのかわからない。「旧制高校予科」を説明すると2000字くらい必要だから、省略する。とにかく、昔の学校制度は複雑なのだ。
 1901年に四高医学部は金沢医学専門学校となって分離し、1915年に医専に「遠足部」が誕生した。金沢大学医学部の資料なので、旧制四高の方の事情はわからない。この先医専の話になる。
 1915年に「マラソンをした」とあるが、どうやら山を走るトレイル・ランニングかクロスカントリーのようなものだったのだろうか。1917、1918年には白山登山をしているが、「登山やマラソンの他にも、兎狩りや筍飯を食う会,能登行脚などの行事も行っていたようである」とあるので、山登りに特化していたわけではなさそうだ。
1924年医専遠足部は「旅行部」と名を変え、山岳部のような活動内容に変わっていく。
 1934年か35年ころに、旅行部は「山岳部」と名前を変えている。社会事情を考えて、遊びを連想させる旅行部という名称を変えたのだろう。
 1949年に新制金沢大学が誕生し、1951年に「スキー山岳部」ができて、1955年に、スキー部と山岳部が分離独立した。
 こういう資料を読むと、「遠足」や「旅行」という語のそもそもの意味や、いつから使い始めた語なのかといった日本語学とか中国語学の調査もしなければいけなくなった。
 「遠足」は、ドイツの教育を輸入したものなので、きちんと調べるなら、日本教育史をひと通りさらっておかなければいけない。「遠足」、「修学旅行」、「運動会」などの歴史を抑えておかないといけない。
 中国語では、日本語の「旅行」の意味では。「旅游」という語を使うと理解していたが、調べれば「旅行」という語も使うようだ。この「旅行」という語が、日本ではいつから使われるようになったのか、日常的に使われるようになったのは、それほど昔のことではないだろうとなると、まだ手をつけていない日本登山史を、腰を入れてやらないといけない。
 インターネット古書店で見つけた本を、内容も分からず注文した。その本がさっき届いた。『少年渡り鳥の旅 西ドイツ青少年運動』(守田道隆、洋々社、1954)は、ワンダーフォーゲルに関係あるだろうと踏んだので、安くはなかったが注文してみた。1954年の「日独交歓健民少年日本派遣団」の記録である。少年の体育教育に熱意を持った福岡県八幡市市長と、新潟県柏崎市市長が、8名の中学生を連れてドイツに行ったという記録である。著者はワンダーフォーゲル活動とユースホステル運動を混同しているようで、しかも公式訪問や視察旅行が中心のようで、残念ながら今回のこのコラムには全く参考にはならなかった。
 調べれば調べるほど、わからないことが多く出てくるというのが、調べる楽しみである。
 これは恋心とはまったく関係ないがないのだが、「逢い見てののちの心にくらぶれば昔はものを思わざりけり」という歌が浮かぶ。遠足部や旅行部を調べていると、昔は「遠足」や「旅行」という語の誕生について、まったく考えていなかった不勉強な自分がよくわかるのである。