1043話 旅する人数


 2017年春学期の私の授業の成績評価のレポートは、2テーマ用意した。そのひとつは、旅する人数に関するものだ。「ひとり旅とふたり以上の旅の、それぞれ長所と短所をあげて、自分が理想とする旅の人数はどういうものか書いてください」といった内容だ。こういう設問だから、正解というものはない。ひとり旅とふたり以上の旅のどちらを選んでも、評価とは関係ない。評価の基準は文章力だ。自分がしたい旅をどういう文章で書くか、そのお手並み拝見という企画だったのだが、その目論見は、外れた。
 ひとり旅とふたり以上の旅の長所や短所を、誰でも考えつくような視点と文章で書いたら、最高でも「やっと合格するかどうか」という程度にしようと思っていたのだが、ほぼ全員がその程度の文章だった。なにかの例え話を持ってくるとか、映画や小説のシーンを使うといったひと工夫があれば、合格圏に入るという基準を作っていたのだが、そういう文章を書いた学生はひとりもいなかった。10点満点で5点以上が合格だとすれば、すべての学生が3.8から4.8点のなかにおさまる結果になったから、このテーマでの評価はナシとして、もうひとつのテーマで評価することにした。
旅する人の人数に関するレポートは、当たり前の、つまらない文章ばかりだが、いくつかの特徴は読み取れた。ほとんどの学生はツアーに参加するのではないが、「ふたり以上の旅」がいいと答えているのだが、その理由の第一位が、「旅の感動を共有したいから」というのだ。
 それがいいとか、悪いとかいうのではない。「感動の共有」に興味のない私は、「ふーん、そういうもんかねえ」と思うだけだ。これは、同行者どうしで、「いいね」ボタンを押しあうような体験をしたいということだろう。名所旧跡、神社仏閣、風光明媚に興味のない私と、旅の感動を共有したい人はほとんどいないから、同行者を求めること自体無理で、同時に私の興味のない事柄に感動を求められても困る。だから私はひとりで旅をする。
 同行者を求める理由の第2位は、「いっしょにいてくれれば安心」というものだ。
 ●自分が知らない旅行情報を教えてもらえる。
 ●事故、病気などトラブルがあったときに助けてもらえる。
 ●外国語に自信がないから、同行者に助けてもらえる。
 そういう理由を読んで、この種の意見の特徴がわかった。自分が助ける立場になることを想定していないのだ。友人とのふたり旅だとする。旅先で友人が事故や病気になったとする。病院の手配、支払い。保険、友人の家族への連絡、場合によれば、日本大使館への連絡などもろもろの作業を、自分がやらなければならなくなるという想像はしていない。自分が面倒を見てもらう状況しか考えていないのだ。
 生命にかかわる病気や事故でなくてもいい。こういうことなら、誰にでも起りうる。ヨーロッパ5か国旅行を計画していたが、最初の訪問地パリで友人が転んでねんざした。腰も痛めたとする。友人はパリから動けない。あなたも2週間そのままパリにいることになるかもしれない。ふたり以上の旅は、自分が助けられることもあるが、助ける側になることもある。同行者の犠牲で救われることもあるが、自分が犠牲になることもある。夫婦の旅なら、「まあ、しょうがないか」とあきらめるしかないが、友人との旅なら欲求不満のかたまりにもなる。
 あるいは、ラオスとタイを旅行するという場合、友人がラオスでパスポートを紛失したとする。パスポートが再発行されるまで、ラオスを動けないから、以降の予定はおおきく狂う。帰国日に間に合わなければ、航空券の手配が必要だ。航空券の予約が変更できればいいが、ラオスから国際電話をかけて、予約変更の手続きがとれるか。変更できない航空券なら、買い直さないといけないが、そのカネはあるのか。安い航空券はどこで買うのか。インターネットで買う技術や知識はあるのか。同行者のために、自分がそういう作業をする気はあるのか、そういう能力はあるのか。そういうことを、「自分がやる」のではなく、「同行者がやってくれる」ことしか想像していない。助けてもらうことだけを考えるなら、旅行社が企画するツアーに参加した方がいい。
 こういうレポートを書いた学生に性別の違いはないが、老夫婦の夫のようなものかとも思った。何があっても、妻が自分の面倒を見てくれると夫は考えているが、自分は妻の介護をするかもしれないなどとみじんも考えていない思考回路と同じようなものか。

 秋は私の旅行シーズンだから、しばらく日本を離れます。いつものように、旅先からブログの更新をするといった芸当はしないので(できないので)、このブログは11月中旬ごろまでしばし休息となる。手持無沙汰の方は、バックナンバーをお読みください。読みでがありますよ。毎日2話分を読んでも、500日分もありますから。