1060話 イタリアの散歩者 第16話

 辻邦生の本はなぜつまらないのかという思索


 特に理由もなく、「イタリアに行ってみようか」と思ったのは、昨年2016年の春のことである。すぐに関連書を買い集めた。段ボール箱に半分ほどの本を読んでみたが、どういう本を読んでも、「いいなあ、イタリア。ぜひ行こう」という起爆剤にはならず、だから昨年はポルトガルとスペインを旅したのだ。
 イタリア関連の一般書を検索してわかったのは、書き手のほとんどが女だということだ。この話は以前も書いたが、イタリアの本を何冊も書いている著者名を、もう一度書き出してみる。
 女王的存在の、塩野七生須賀敦子。そして、内田洋子、田丸公美子、タカコ・H、メロジー、松本葉、島村菜津、貝谷郁子、ヤマザキマリ、有元葉子、杉本あり、鈴木奈月、田島麻美。千厩ともよ。別格の矢島翠。他にもまだいるだろう。男では、建築研究者の陣内秀信など学者以外では、日本語で文章を書いているイタリア人アレッサンドロ・ジェレヴィーニ、そしてパンツェッタ・ちょい悪・ジローラモ(本名はジローラモ・パンツェッタ)などのように、イタリア人が書いた本を読んだ。イタリア本の読者の多くは女だから、イタリアの男が書いた本なら売れるということか。このように、書き手が一方的に女に傾いている例を、他の国では知らない。書き手が女だということは、読み手も女だということだ。ちなみに、上にあげた書き手のなかで、私の好みに合ったのは、須賀敦子田丸公美子のふたりだ。
 男が書いたイタリアの本で、著者名を知っているが読む気にならなかったのが、辻邦生の『美しい夏の行方』(中公文庫、1999)だ。辻の本は、つまらないに違いないという予断があって、いままでまったく読まなかった。読んだ結果の判断ではなく、読まないで決めた。ところが、この文庫にシリチアの章があることを知って、買うことにした。つまらない本でも、異郷にあって他に読む本がなければ読むだろうという判断だったから、日本では目を通さなかった。
 シチリアに着いて、この本の「海に向かって、夏 シチリアの旅から」のページを開いた。異郷の身なので、一気に読んだが、私の予断は正しかった。ひどくつまらなかったのだが、自称紀行文研究者としては、なぜつまらないかを考えることで、本代の元を取りたくなった。
 シチリアの紀行文であるこのエッセイは、本文が103ページから193ページまでの90ページという短い文章だ。「ローマに着いたのが朝の八時半。」という文章で始まり、著者一行がシチリアパレルモに着いたという描写が出てくるのが、118ページだ。なかなかシチリアに着かないのだ。その15ページの間にどういう事が書いてあるのか。
 出発前にボードレールの『悪の華』を読んだこと。「ぼくが初めて地中海を見たのは、今からもう三十年も前・・・」という思い出話。「たとえばヴァレリは・・」と詩を引用。そして、ジャン・グルニエの『孤島』からの引用があり、地中海への思いを、こう語る。
 「ぼくは地中海を見るとき、nostra mareに交錯した歴史ドラマを、パノラマを見るように想像することがある。ここで生まれたフィディアスの端正典雅な彫刻に、ソフォクレスの荘重な悲劇に、ピンダロスの明晰で憂鬱な詩に、プラトンの精緻な思弁的対話に・・・」という、私には興味のない文章が続く。そして、当然ながら、ゲーテの『イタリア紀行』からの引用。
 パレルモの話が始まるまでの15ページは、辻邦生(1925 ~1999)の時代背景である。辻が留学のためパリで行ったのが1957年だった。選ばれた特別のインテリだけに許された海外留学であり、フランス文学を学んでいる辻にとっては、あこがれの西洋である。そうした濃厚な思いを書かずに、紀行文は書けないのだ。
 辻でなくても、昔の文学者や評論家などの西洋旅行記は、自分がいかに西洋文明を学んだかという教養の展覧会でもあった。ゲーテスタンダールや数々の哲学者や泰西名画の画家たちの名を出さずに紀行文を書くことなど不可能だといっていい。かつて、教養の時代の紀行文があった。辻よりも8歳年下だが、そういう教養を表に出さなかったのは小田実(1932〜2007)である。辻も小田も、同時代に東大に在籍し、辻はフランスに、小田はアメリカに留学した。小田が教養を前面に出さなかったのはアメリカに留学したからではなく、小田個人の資質の違いだろう。
 辻邦生須賀敦子はほぼ同世代だが(須賀が4歳年下)で、ともに深い教養を身につけているが、須賀の文章に「教養の展覧会」は、ない。どうも、女が書く文章に、教養の展覧会は少ないという印象があるのだが、さて真実はどうだろう。
 紀行文から教養が消えたのはいつからだろう。立花隆『思索紀行 ぼくはこんな旅をしてきた』(書籍情報社、2004)は、青春時代からの旅の話で、まさに思索の紀行文集だ。世代的に言えば、団塊の世代以降は、もはや「思索の旅」は書かなくなった。団塊世代の次の世代は、「自分探し的な思考」はしても、教養を前面に出す紀行文はほとんど書かなくなるが、沢木耕太郎の『深夜特急』は、ヨーロッパ編に入ると、とたんに教養色が強くなる。
 意識的に教養を書かないようにしている書き手もいるが、書くような教養がそもそもない者もいる。深い教養がありながら、教養を前面に出さないようにしている書き手としては、田中真知、蔵前仁一宮田珠己高野秀行といった人たちがいる。文章に教養を出すと本が売れないことがわかっている人たちだ。
 

 パレルモの海