1061話 イタリアの散歩者 第17話

 ベネチアへ その1


 ベネチアに行く気は、初めからなかった。大観光地は、性に合わない。イタリアに行く2日前に、イタリア史の研究者である山辺規子さん(奈良女子大学)に会ったので、イタリアに関する雑談をした。ローマは、ミラノは、ボローニャは、と街の話をした。
 「ベネチアへは?」
 「行く気はないんですよ。世界的な大観光地でしょ。物価が高くて、観光客だらけで・・・」
観光地の人ごみと、土産物屋ばかりが並ぶ小路の風景が苦手だ。
 「うん、たしかに」。山辺さんはひと呼吸置いて、話した。「ベネチアは、たしかに世界的な大観光地です。でも、あんな街は他にないんですから、一度は行ってみる価値はあると思いますよ。駅の近くなら、安いホテルはありますから」
 そんなもんかとは思ったが、だからといって宗旨替えする気はない。しかし、ほかにはないここだけの街、one and onlyという山辺さんの話の趣旨は、ちょっと心に残った。
 どういう訳か、イタリアを往復するタイ航空の特定のある日の発着便だけが安かったので、バンコク経由便を使うことにした。わざと乗り換え時間が長い便を選び、友人とゆっくり夕食を楽しんだ。
 タイで日本語雑誌「DACO」(ダコ)を出版している沼館社主は、たまたまイタリア旅行から帰ったばかりだった。レンタカーでアマルフィなどを巡る甘美にして優雅な夫婦旅をたっぷり楽しんできたそうだ。
 「で、ベネチアには行きました?」と聞いてみた。
 「いや、行かなかったんですよ。ベネチアはねえ、行こうかなとは思ってたんですよ。でもね、バンコクに住んでいると、運河とか水上バス水上タクシーとか、珍しくないなあと思って、行くのをやめたんですよ」
 なるほど。ベネチアは、バンコクとさほど変わらない、か。19世紀にバンコクを訪れた西洋人は、ここを「東洋のベニス」と呼んだという話は巷に流布している(その話の出典はわからない)。ベネチアは写真でしか知らないが、バンコクと一緒にするのはやはり無理があると思った。
 そうだ、だいぶ前にラオスのルアンパバンの話も沼館社主としたのを思い出した。その年、沼館社主はルアンパバンから戻ったところだった。「私も、行くかどうか、ちょっと考えていたところなんですよ。でもねえ、もうすっかり観光地になっているようなんで、行く気をなくしていて・・・」といった。
「たしかに、すっかり観光地化されています。テーマパーク化しています」と沼館社主。「そして、これからは、もっともっと観光地化しますよ。だから、行くなら、今すぐです。今後、もう後戻りすることはありません。今の姿を、今見ておいた方がいいと思いますよ」
 そのアドバイスを受けて、すぐにルアンパバンに行った。そして、それから3年後に、ひょんなことからまた行ったのだが、そこはもう以前のルアンパバンではなかった。たった3年間ですっかり変わっていた。行っておいて、よかった。ベネチアだって、少しでも「行こうか」と思ったなら、深く考えずに行っておいた方がいいのかもしれない。