1077話 イタリアの散歩者 第33話

 「イタリア料理」は新しい 〜ピザとスパゲティの話 その10
    フォークのこと

 アマゾンで、『食のイタリア文化史』(アルベルト・カバッティ&マッシモ・モンタナーリ、柴野均訳、岩波書店、2011)という本を見つけたのだが、税込み7000円ほどする学術書だから、「1クリックで買う」などという勇気はない。「高い本ほどおもしろくない」というジンクスがあって、これがよく当たるから、買うのが怖いのだ。うれしいことに、たまたま近所の図書館にあることがわかり、予約した。
 さっそく読んでみたのだが、次の文章で、「この本、大丈夫かね?」と思った。
 「イタリアでは14世紀以降フォークはふつうに使われるようになっていたが、他のヨーロッパ諸国では17,18世紀になっても指を使う伝統を捨て去ることへの抵抗が残った。イタリアでフォークの普及が早かったのは、少なくともひとつにはパスタのように滑りやすく、また危険なほど熱くて、『食べにくい』料理が食体系に組みこまれたことによるものだろう」(78ページ)。
 実はこの記述、今まで何度も目にしている。例えば『キッチンの歴史 料理道具が買えた人類の食文化』(ビー・ウィルソン、真田由美子訳、河出書房新社、2014)にも「14世紀」「ふつうに」という語はないが、同じような意味の記述はある。一方、『フォークの歯はなぜ四本になったか』(ヘンリー・ペトロスキー、忠平美幸訳、平凡社、2010)では、2本歯のフォークは中世のイタリアにはあったが、「十八世紀の初めになると、ドイツでは今日と同じような四本歯のフォークが登場し、十九世紀の終わりには、イギリスで四本歯のディナーフォークが一般的に使われるようになった」とある。
 だから、『食のイタリア文化史』の記述が気になるのだ。「イタリアでは14世紀以降フォークはふつうに使われるようになった」と書いているが、「ふつう」とはどういう意味か。「ふつうではない」王侯貴族のごく一部が使い始めたのではないのか。ローストビーフを切るときに使うような大きな2本刃のフォークのように、初めはサーブ用で、のちに個々人が使うようになるのだが、イタリア全土でフォークが「ふつうに使われるようになった」と言えるのは、20世紀に入ってからだろう。そうでなければ、ナポリの路上で、パスタを指でつまんで食べている写真や絵が数多くあるわけがない。イタリア人はパスタを食べるから、他の国よりもフォークの普及が早かったと主張したいのならば、そのパスタを指でつまんで食べている19世紀の映像をどう解説するのか。
 他の部分でも、この本の精密さが気になった。ある事柄がイタリアのどの地域の、どこ階層を取り上げているのかが、まったくわからないのだ。王宮の晩餐会でフォークが使われたという記録があったとしても、それが個人用のフォークだったか、料理を取り分けるためのフォークだったか。個人用のフォークだったとしても、その時代に個人用のフォークが使われていたという証拠にはなっても、イタリアのどこででもフォークが使われていたという証拠にはならないというようなことだ。「ふつうに」などという漠然とした表現では、なにもわからない。他のテーマでも、精緻な論証がないのだ。
 例えば、『食のイタリア文化史』には、料理書の記述から、ある料理がその時代に存在していたというようなことが書いてあるが、料理書はフィールドノートであるとは限らない。現実に存在する料理の記録ではなく、その料理書を書いた人物の創作だということもあれば、料理そのものは実在したが、ある地域のある特定の階層に限られた「事実」であるかもしれない。
 日本でいえば、江戸時代の江戸の庶民がすしやそばを食べていたのは事実だが、だからといって、その時代の日本のどこに住んでいる人も、同じような料理を食べていたわけではない。日本人の誰もが、混ぜ物のない米の飯を腹いっぱい食べられるようになったのは1960年代になってからだと知って以来、その料理は、その食材は、どの地域で、どの階層で食べられていたのか、つねに気にするようになった。
 ふたりのイタリア人学者が書いたこの本を、イタリア食文化の素人である私は、そのような読み方で読み、批判的な感想を持った。高い本を買わなくて、よかった。


 スプーン、フォーク、ナイフのセット。16世紀なかばのもの。フォークは2本歯だ。ベネチアのコッレール博物館。


 トリノの王宮で、携帯用のナイフ、フォーク、スプーンのセットを見つけた。1870年代