1196話 プラハ 風がハープを奏でるように 第5回

 チェコプラハの基礎知識

 

 チェコは、日本語ではチェコ共和国チェコ語ではČeská republikaチェスカー・レプブリカ、英語では Czech Republicチェック・リパブリック。英語のCzechは、国名のほか、チェコ人、チェコ語、そして「チェコの~」を表す形容詞にもなる。

 人口は、東京都よりもかなり少ない1058万人(2017年)、面積は約7万8000平方メートルで、北海道とほぼ同じ。国境を接するのは、北からポーランドスロバキアオーストリア、ドイツの4国。内陸国なので、海はない。

 首都はプラハチェコ語でPraha。日本語に近い音だが、プハと「ら」の音が巻き舌になる。英語ではPragueプラーグ。プラハの面積は約500平方キロ。正方形なら、22キロ四方という感じ。首都プラハの人口は、京都市よりやや少ない128万人(2017年)だ。ちなみに、1996年にプラハ京都市姉妹都市になっている。街の標高は200~400メートルくらいの盆地で、寒暖の差が大きい。旧市街を歩いているだけなら平坦な街だと思うかもしれないが、中心部から少し離れると急坂や断崖に出会うことがある。

 言語事情は別項目で解説するが、チェコ人が全人口の94パーセントで、ほかの民族もチェコ語母語として育っているので、大きな言語問題はない。歴史的に、ドイツ語を使う時代があったり、ロシア語の学習を強制された時代もあったが、現在の、特に若い人たちの第一外国語は英語である。

 歴史の話を、ほんの少し。

 古代や中世には日本人には見慣れない王国名がいくつも登場するので、ここでは省略する。ごく簡単に言えば、チョコ人が住む王国は、近隣の王国の支配を受け続けた歴史が長くあり、特にドイツ人が移民となって住み着き、技術や学問の先導者になった。ドイツ人やドイツの教育を受けたチェコ人が、チェコ語しか話さない人々を支配して工業国になっていくのが19世紀までのチェコだが、ドイツからは遠いスロバキアはずっと貧しい農業国であった。

 2018年のチェコを旅すると、「1918~2018」という表示をよく見かける。これは、チェコを支配していたオーストリア=ハンガリー帝国第一次世界大戦で敗れ、1918年に晴れて独立したからである。それから100年ということで、写真などを使った回顧展が各地で開催されていた。歴史が異なるチェコと、ハンガリー王国に支配されていたスロバキアが統合して独立して、1918年にチェコスロバキアという国が誕生した。初代大統領はトマーシュ・マサリク。

 独立の喜びは20年しか続かなかった。1938年、ナチス・ドイツは、ドイツ人が多く住むズデーテン地方(ドイツとの国境周辺の地域)を割譲せよと要求してきた。できれば戦争を避けたいイギリスとフランスは、この問題の解決案をチェコに示した。チェコがドイツに領土の一部を割譲すれば、英仏独はチェコの安全を保障するというもので、これがミュンヘン協定である。

 チェコはやむなく、この協定を受け入れて、国境地域の領土をドイツに割譲することに同意すると、ポーランドハンガリーも同様の要求をしてきた。チェコスロバキアの内紛に乗じて、ドイツはチェコ保護領にし、スロバキアハンガリー領となり、第二次世界大戦に進んでいく。

 1945年、戦争が終わった。チェコ人の対外感情は、チェコを支配したドイツに対する反感と同時に、屈辱的なミュンヘン協定を迫ったイギリスとフランスに対しても、反感があった。そして、ドイツと戦いチェコスロバキアを解放したソ連に対しては好感を持った。そういう感情があったので、終戦後、国土を回復し、チェコスロバキアという国家がまた生まれると、共産党が力を持ち、親ソ連の政権ができる要因のひとつとなった。つまり、戦後間もなくの時点では、ソ連が武力でチェコスロバキアを支配したわけではなく、ソ連を受け入れる勢力があったのだが、共産党が力を持つと、反共産党勢力は排除されていった。

 1968年、共産党は自由化を押し進める「人間の顔をした社会主義」をめざしたのが「プラハの春」であり、この動きに対してソ連ワルシャワ条約機構の4か国(ポーランドブルガリアハンガリー東ドイツ)とともに、チェコスロバキアに戦車で侵攻して恐怖を与えた。チェコの歴史を調べていてたった今知ったのは、中ソ対立により、反ソビエト・親中国に進んだアルバニアは、この「プラハの春」事件に抗議して、ワルシャワ条約機構を脱退した。中国を取材していた朝日新聞記者の本多勝一が、鎖国状態にあるアルバニアに突然入国可能になった(1971年)裏には、そういういきさつがあったことを思い出した。

 自由化への動きはソ連の圧力を受けて封じられ、ソ連が望むよう政策を進めることを、チェコスロバキアの政治用語では「正常化」とカギかっこ付きで書くらしい。

 真の自由化が実現するのは、1989年。無血革命なので、ビロードの手触りのようにスムースにという意味で、これをビロード革命という。1993年には、スロバキアが分離独立して、チェコスロバキアに分かれ、チェコ共和国スロバキア共和国が誕生した。分離独立に混乱がなかったので、これを「ビロード離婚」と呼ぶらしい。2004年に、スロバキアとともにEUに加盟した。

 プラハ城と、そこに建つ聖ビート大聖堂

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