1199話 プラハ 風がハープを奏でるように 第8回

英語を覚えるわけではなく

 

 英語の辞書があれば、会話がもっとうまくいったのになあということはあった。

 雑談をしていれば、わからない単語などいくらでも出てくる。そこでいちいち辞書を引いていたら、会話にならない。だから、わかっている振りをするのも会話の技術だ。昔は英和辞典を持っていて、わからない単語が出てくると、辞書を渡して、「その単語の説明文を見せて」と言ったりしたこともあったが、だんだん面倒になり、辞書を持って旅することもなくなった。それは数多くの英単語がこの頭に入り込んだという意味ではまったくなく、ただ単にズボラになったというだけだ。

 宿の台所は誰でも自由に使えたし、コーヒーや紅茶が飲み放題だったので、台所にもよく顔を出した。そこで知り合ったアメリカ人女性は私よりも年上に見えた。今回の旅の話から、かつて、医療ボランティアとして平和部隊などに参加して、さまざまな国に行ったというような話になった。その活動の話していると、近くにいた旅行者が、「あなたはドクターなんですね」と確認すると、「ドクターではあるけれど、DPTなの」といったが、これがわからない。「それは何ですか?」と質問すると、「Doctor of Physical Therapyのこと」という答えが返ってきたが、これもわからん。彼女は、DPTという略語の成立事情などを解説してくれたが、まるで分らないので、この件に関する質問はやめた。

 帰国してから調べると、それは理学療法士のことだった。日本語では読めるからわかったような気になっているが、具体的にどういうことをする仕事なのかさっぱりわからない。わからないという点では、日本語でも英語でもおなじことだ。だから、これは英語の問題ではなく、私の知識不足が問題なのだ。

 チェコの南部、オーストリアとの国境に近いチェスキー・クロムロフという小さな街に行った。今回の旅は、基本的にプラハにいる予定なのだが、プラハを知るには地方も少しは知らないといけないと思い、南部の街に行ったのだ。

 チェスキー・クロムロフの旧市街は200メートル四方くらいの小さな街だから、朝の散歩に出たら、前日プラハ駅のホームで会い、この街まで一緒に来た60代のオーストラリア人夫婦と出くわした。

 「小さな街だから、きっとどこかでまた会うわね」といって前日別れ、翌日の朝には再会するような街だ。

 ふたりといっしょに散歩した。ちょっと高い場所に登って街をじっと眺め、しばらく沈黙し、「トランキルっていう単語は知ってますか?」と妻の方が言った。

 「知りません」と答えると、「こういう景色はトランキルという語がぴったりなの」と言って、その語の説明をした。イギリス出身の彼女は、カナダでもアメリカでも、外国人に英語を教えていた経験があるので説明はわかりやすく、私の頭には「静寂」とか「静謐」(せいひつ)という語が浮かんだ。

 帰国してから調べてみると、その語は“tranquil”で、意味はやはり「静謐」だ。私は日本語でも英語でも小説を読まないので、こういう単語になじみがない。そして私にとって大事なことは、旅先で英単語をひとつ覚えたことではなく、その語を巡って言葉のやり取りをしばらくしたことだ。

 日本の若者も、外国でも日本語でスマホ遊びをしていないで、目の前の人間とどういうテーマであれ、こういう言葉のやりとりを楽しんでみればいいのになあと思うのである。

 「テーブルにスマホを置いて、何もしゃべらずに食事をしているカップルって、いるよね」と私が言うと、「そう、国籍に関係なく、いるわね。旅行中でもね。私たちには驚きよね」と彼女。

 中高年には信じられない光景なのだ。

 チェスキー・クロムロフの中心部。まあ、テーマパークだ。

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