1208話 プラハ 風がハープを奏でるように 第17回

 チェコ語 前編

 

 チェコ語の文法はややこしいということはすでにわかっているから、チェコに行くからといって、チェコ語を学ぶことはハナから考えていなかった。私は言葉に興味があるが、その言葉を地道に学ぶまじめさがないのだ。言葉が通じなくて困れば、その現地で学べばいいやという泥縄式学習者が私である。

 考えてみればどこの国でも同じだったが、すぐに覚えるのはドアの「引く」と「押す」の表記だ。毎日ドアに手をつけるから、「tam」(押す)、「sem」(引く)というのは、すぐに覚えた。出口、入り口という表記も同様によく目にするのだが、チェコ語の場合は「vchod」(入り口)、「východ」(出口)だから、間違いやすい。

 まず記号の話をしておこう。チェコ語ではフランス語のアクセント記号のような記号が3種ある。例えば、zavazadlo(荷物)とzáchod(トイレ)のように、zaのaに記号があるかどうかの違いは、「ザバザドゥロ」と「ザーホッド」のように、aの上に記号がつくとaaと長母音化するとわかる。こういう規則はいろいろあるが、ここでは解説しないし、今後このブログでチェコ語を出しても、打つのが面倒だから記号は無視する。記号が面倒と思うのはフランス語やドイツ語などにつく記号に慣れていない外国人だけかと思っていたのだが、ある日、チェコ人も記号を無視することを知った。買い物をした時にもらったレシートを読み返し、私が買った物をチェコ語ではどういうのかチェックをしていて、気がついた。レシートのチェコ語には記号がまったくないのだ。チェコ人なら、記号がなくても前後の関係から意味を理解できるから省略しているのだろう。ドイツの研究者と話をしていたら、最近ドイツでも記号を省略することがあるらしい。そのほうがコンピューターでは便利なのだ。

 チェコ語は読むのはちょっと面倒だが、発音は日本人にはやさしい。しかし、日本人を含め多くの外国人にとって難しい発音は、記号付きのRだ。例えば、これ。

 Antonín Leopold Dvořák 

 日本では「ドボルザーク」と呼んでいる作曲家の名前だが、チェコ語では「アントニーン・レオポルド・ドボザーク」となる。記号がつかないrはそのままrだが、Dvořákのように、記号がついたřzに近い音になるから、そのままローマ字読みはできない。

 チェコ語のカタカナ表記は、このブログでは「ヴ」(出版用語では「ウ濁点」という)は使わないという私の規則で行なう。「ヴァイオリン」と表記したがる人だって、日本語の会話では実際にはそうは発音していないだろうし、「エレベーター」やオーブン」を、「エレヴェーター」とか「オーヴン」などと表記をしないし発音もしないだろう。それなのにときどき「ヴ」を使いたがるのは、その方が格好いいだろうという西洋かぶれに過ぎない。私は昔からヴは使わない。「高輪ゲートウェイ」という駅名を、「英語だ、かっこいい!」と思う感覚も、こういう西洋かぶれなのだ。

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 記号付きのこういうチェコ語をにらむと、「renovace・・・、ああ、リノベーションか。日本語ならリフォームか」と、不動産看板を見て、想像がつくこともある。

 チェコでもっとも有名な川は「モルダウ」だろうが、これはドイツ語だ。かつてドイツ語が支配言語だったから、ドイツ語表記の方が外国に広まったのだ。この川を、チェコ語ではVltavaという。言語学者であり翻訳者であり、チェコ語研究の第一人者である千野栄一はその著書『プラハの古本屋』ではヴは一切使わず、「ブルタバ」とカタカナ表記している(しかし、なぜか同著者の『ビールと古本のプラハ』ではヴが登場する)。

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 日本人にはモルダウとして知られるブルタバ川。寒いのは嫌いだが、雪の日の景色もきれいだろうなと思う。

 チェコ語の解説書などを読んでみると、チェコ人の名前の話がおもしろい。スペイン語やイタリア語を少し撫でたので、Mariaのようにaで終われば女性の名、Marioのようにoで終われば男性の名といったことは知っていた。だから、日本人の恭子とか景子だと、語尾がoで終わっているから、スペイン人は男の名だというイメージがわくという話も聞いたことがある。

 チェコ語の場合は姓が男女で変わるのだという。『チェコ語のしくみ』(金指久美子、ルナテック、2007)から,その例を書き出すとこうなる。

 Novak(ノバーク)氏の妻の姓はNovakではなく、Novakovaというように女性形に変えないといけない。外国人から見ると、変則的夫婦同姓なのだ。それは外国人でも同様で、日本人男性の青木氏と結婚したチェコ人女性は、夫の姓のAokiになるのではなく、Aokiovaと女性形にしなければいけなかった。2004年のEU加盟によって、夫の姓をそのまま使えるようになったものの、雑誌の記事などでは外国の芸能人女性の姓も、女性形に改変して記事を書くことがあるそうだ。男の姓の女性というのは、チェコ人は落ち着かないらしい。

 こういう法則はチェコ語だけの特徴ではないだろう。チェコ語を勉強をする気はないが、こういうエッセイを読むのは好きだから、けっこう買い集めている。

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  ブルタバ川にかかるこの鉄橋をみて、「ああ、あそこだな」と察しがつくようになるのにひと月はかかる。