1213話 プラハ 風がハープを奏でるように 第22回

 マルタ・クビショバーとチェコの音楽と政治と その4

 

 マルタ・クビショバーもベラ・チャスラフスカも、初めから筋金入りの活動家だったわけではない。チェコ事件の以前も以後も、共産党政府ににらまれた有名人などいくらでもいたが、多くは共産党に恭順の姿勢を示すか、あるいは政府の勧めに応じて亡命した。しかし、ふたりは、最初の「No」(チェコ語で「Ne」というべきだろうが)を最後まで言い続けた。

 マルタは芸能界に入ったときはアイドル歌手だった。歌で自由を訴えたいという思想はあまりなかったと思う。それなのに政治運動に入っていった理由はふたつあると思う。ひとつは、医者の娘だということで大学進学を禁じられ、やむなく工員をやらされたことに対する怒りだろう。もうひとつの理由は、最初の夫ヤン・ネメツの影響だ。映画監督の彼は、反体制思想の持ち主で、同じ思想の持ち主の活動家で、のちに大統領になる劇作家バーツラフ・ハベルは、彼のいとこだ。だから若い時から、ハベルと親交があり、マルタの最初のLPレコードに入っている”MAMA”のミュージック・ビデオにエクストラ出演しているという情報があったが、見つけらなかった。

https://www.youtube.com/watch?v=L7GU2LmUXV4

 この歌は、アメリカ人歌手シェールが1966年に発表した“Mama When My Dollies Have Babies”のカバー。チェコ語の詞が翻訳かオリジナルかは不明。シェールのオリジナルはこれ。日本でも同じだったが、この時代はアメリカ音楽のカバーが多い。だから、欧米大衆音楽禁止というわけではなかったことが、当時のテレビ映像などを見てもよくわかる。やはり、中国とは違うのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=7lANLm8UuGI

 その後もハベルとの交友は続き、ハベルが逮捕されたときは、ハベルに代わって自由化運動のリーダー代行を務めた。

 チェコスロバキア最後の大統領(在位1989~92)であり、チェコの最初の大統領(在位1993~2003)になったハベルは、2011年死亡。75歳。2012年、彼の功績をたたえ、プラハのルジィーニエ空港がバーツラフ・ハベル・プラハ空港と改称された。

 ちなみに、バーツラフ(Vaclav)という名はチェコでよくある男の名前で、有名なのはこのハベル元大統領や、バーツラフ広場の元となる民族の英雄バーツラフ1世(907~935)だろう。チョコ以外でもこの名は広く使われ、ポルトガルでは現代の正書法でVenceslauとなり、日本でもよく知られる外交官にして作家のベンセスラス・デ・モライス(1854~1929)がいる。

 チェコの自由化運動「プラハの春」を推し進めた当時の共産党第1書記のアレキサンデル・ドゥプチェクは、68年のチェコ事件でソビエトに連れ去られ、帰国後は失脚し、国有林で工員をさせられていた。89年のビロード革命復権したが、1992年に交通事故で死亡した。ベラ・チャスラフスカの話は、別の章で書く。