1084話 イタリアの散歩者 第40話

 ナポリは危険か 前編


 大都市ミラノの中央駅は、ムッソリーニ時代に建てられたもので、威張りくさった嫌な建造物だ。ローマのテルミニ駅に次いで利用者が多い駅らしいが、駅前広場を出ると、人はほとんどいない。スカラ座やドゥオーモやビットリオ・エマヌエーレ2世のガッレリアなどがある名所密集地につながるビットル・ピザーニ大通りは、道の両側にオフィスが並んでいるせいで、人通りが少ない。こういう空疎な通りに似ている大通りを知っている。JR千葉駅前の通りだ。駅前に銀行などがあるオフィス街のせいで、休日や午後からの人出がほとんどない。
 ミラノの駅前通りもおもしろくない通りだが、うんざりしていたわけではない。むしろ、浮き浮きしていたといってもいい。清々していたといってもいい。ナポリと違って、のんびりと歩ける。両手を広げても誰にもぶつからないどころか、私の半径10メートルくらいに人がいないのだ。この解放感で、心が安らぐ。


 ミラノ中央駅は重厚すぎて、偉そうで、好きにはなれなかった。


 こういうなんでもない写真を撮ったのは、私の周りに人がいないことに感動していたからだ。

 ナポリに着いてすぐ、宿のオーナーのリビアさんから、ナポリ散歩の注意事項の講習があった。ショルダーバッグは必ず斜め掛けにすること。歩道は車道側ではなく、壁側を歩け。バスなどに乗るときは、しっかりとバッグを抱えるように持つこと。夜に路地を歩かないなどなど。ナポリは、やはり危ないのか。
 日本に電話するために、国際電話とインターネットの店に行った。スマホもパソコンも持っていない私のような外国人向けに、そういう店があるのだ。スペインでも台湾でも、公衆電話から日本に電話を掛けられるのに、イタリアではできなかった。しかたなく、その手の店を探した。5分話して、1ユーロもしないので、「安いですね」と店主に言ったことから、インド人店主とちょっと世間話をした。
 店主がまず言ったのは、「ナポリ散歩は注意しなさい」ということで、注意事項はリビアさんが言ったこととほぼ同じだった。
 「ナポリに来て17年になるけど、ここは危ない。気を付けてください」
 「何か、被害にあったことはありますか?」
 「いや。いつも注意して歩いているからね、大丈夫」
 「イタリアは、インドより危ないですか?」
 店主は聞こえないふりをした。凶悪事件では、イタリアの方が危険かもしれないが、スリ、置き引き、コソ泥などでは、さて、どちらがより危険だろうか。
ある日の夕方、アフリカ人市場になっている道を駅方面に歩いていると、後ろから肩をたたかれ、「ミスター!」の声。振り向くと、中年男が私の肩を指さし、「鳥が・・・」と言って、空と肩を指さした。左肩に白い液体がついている。右手を見ると、よれよれの青いスーツを着た男と、セーター姿の男が私を見て、ニヤニヤしている。
 危ない!!
 一瞬で判断した。街によっては、ケチャップやアイスクリームをつけて、その汚れに驚いているうちに、バッグやポケットから金品を奪うという犯罪があることは知っている。これは、そういう犯罪だとひらめいてので、足早に現場を去った。親切に教えてくれたなら、礼も言わずに逃げ去ったのだから、失礼極まりない行為なのだが、私の勘は、赤信号が点灯していた。3人の中年男はイタリア人かどうか知らないが、西洋人だ。その風体は、日本でいえば、駅裏の古い喫茶店の平日の午後、競馬新聞を広げつつ、何か儲け話はないかとしゃべっているような男たち。よれよれの青いスーツは売れない漫才師の衣装のようだった。そして、そういう男が、わざわざ親切で、鳥のフンの落下を外国人に教えるかどうか。
 この体験を何人かに話すと、「それは、怪しいな」といった。
そういう体験をナポリでしたあとの、ミラノだ。もっとも観光客が集まっているドゥオーモ周辺だって、ナポリの道路ほど人はいない。ましてや、他の地区だと、人が近くにいない。スリの心配が要らない。ショルダーバッグの斜め掛けをやめて、片方の肩にかけて、のんびり歩いた。ああ、安心して歩ける。ミラノからイタリアに入ったとしたら、「なんとつまらん街だ」と思うだろうが、今はこの空虚感が落ち着かせてくれる。