1086話 イタリアの散歩者 第42話

 ミラノへ行ってみようか 前編


 日本からイタリアに行くとすれば、ローマ着にするかミラノ着にするかを選ぶ必要がある。ほかにも国際線の便が発着する街もあるが、だいたいはローマかミラノだろう。観光地として有名なのは、ミラノなどがある北部とフィレンツェボローニャなどがある中部だ。初めてのイタリアなら、ローマに行ってスペイン広場やトレビの泉を見るだろうが、2度目なら、北部中心の旅になるだろう。
 「ミラノはつまらないらしい」という予断があった。ミラノに関する本は多いが、私の周りで、ミラノを絶賛する人はいなかった。だから、成田・ローマの便を利用した。初めから北部には行かない予定だった。ひょんなことからベネチアに行ったが、そこから南下して、フィレンツェボローニャかを経由してローマに戻る計画を立てていた。それなのに、ベネチアからミラノに向かったのは、南部しか見ていないから、この機会に北部も見ておかないとイタリアがよくわからないだろうと思ったからだ。もうひとつ、北部に行けば、もしかしてアルプスの白い雪山が街のどこかから見えるかもしれないし、見えないならば、雪山が見える街まで北上してもいいと思った。自分のことなのによくわからないのだが、シチリアの荒野を見たら、アルプスの雪を見たくなったらしい。
 ミラノの街の中心部は、端正という感じで、イタリアよりも北のヨーロッパ諸国の街、例えばオーストリアやドイツの街のようだった。スイスにもオーストリアにも行ったことはないが、何となくそんな気がした。ビルには道路名の表示板がちゃんと付いていて、道路もデコボコではなく、ビルの壁は掃除されている。
 ミラノを出る日は朝早く目ざめ、また寝るのはもったいないので、朝の散歩をした。宿を出ると、風が冷たい。街が霧で包まれている。パレルモとはまったく違う。
駅周辺に、観光客が喜ぶような施設があるわけではない。ただの街だ。開店の準備をしている商店があった。店主はホウキで店の前を履き、水を撒いている。もともと。歩道にゴミはほとんど落ちていない。このまじめさが、北イタリアか。
 視界100メートルの霧の街を路面電車が走っている。落ち着いた大人向けの雑誌の旅行記事には悪くない風景だ。
 寒い寒い朝の散歩を終えて、宿に戻っても、トリノに行く鉄道に乗るまで、まだちょっと時間がある。バッグから本を詰めた袋を取り出した。イタリアに着くまでは読まないようにしていた本がそのままになっている。『須賀敦子全集 第一巻』(須賀敦子河出文庫、2006)のページを開く。書名はよく知っているが、一度も手に取ったことさえない『ミラノ霧の風景』(白水社、1990年)や『コルシア書店の仲間たち』(文藝春秋、1992)が、この全集に収められている。この単行本だけでなく、須賀敦子の文章をいままで一度も読んだことがなかったが、「もしかして、おもしろいかもしれない」という予感が、イタリアに行く数日前に突然ひらめいて、買っておいた。辻邦生の本と同じように、異郷に居て、ほかに読む本がなければ、多少我慢してでも読むだろうという作戦である。
 『ミラノ 霧の風景』は「遠い霧の匂い」という、わずか6ページのエッセイから始まる。霧のミラノの朝の、わずか10分ほどの時間を、このエッセイ読むことで過ごしたことは幸運だった。ベッドで寝転んで読み、読み終えて、窓の外の霧のミラノを眺めた。散歩をしていて『ミラノ 霧の風景』という書名を思い出し、「須賀敦子が見たミラノの霧がこれか」と思ったのだが、昔の霧はこんなものじゃなかったという。
 「十年以上暮らしたミラノの風物でなにがいちばんなつかしいかと聞かれたら、私は即座に『霧』とこたえるだろう」というミラノの霧は、私が今朝見てきたような霧ではなかった。1960年代のミラノは、「視界二メートルというような日には、車を野道に乗り捨てて歩くこともあるほどだ。一度霧の中に迷いこむと、とんでもない所に行ってしまうからだ」というくらい、悪名高きロンドンよりもすさまじい霧だったという。
 その霧深い時代の苦い思い出が、この短いエッセイに綴られている。旅の出る前に読まないで、正解だった。このエッセイをすでに読んでいる人は、私がわざとそっけなく書いていることに気がつくだろう。霧に包まれた地で、どういう事が起こったのか、ここではいっさい書かない。読んでごらんなさいよ、とだけ言っておこう。「遠い霧の匂い」という短文から、私は須賀の世界に初めて入り、帰国してもまだ読んでいる。


 初秋の寒い朝。ゴミのない道を、掃き清めるがごとくほうきを動かす。


 霧のミラノには、二階建て観光バスは場違いに思えて、あえてその瞬間を撮った。ミラノ中央駅周辺は、こういう近代的な街並みだった。