1100話 イタリアの散歩者 第56話

 イタリア映画 その2

 すでにイタリア各地の博物館に行き、期待外れの連続で、外れることには慣れているので、チネチッタの資料館にも、失望はしなかったものの、「もうちょっと、なんとか」と思う。規模が小さく、写真とポスターとDVD動画での作品紹介は、工夫のかけらもない。文化祭の発表のようだ。


 フェリーニの部屋。椅子や帽子など遺品といくつかの映像を見せる。


 これが何かの映画のシーンだったか、戦後間もなくのローマの風景だったか記憶にないのだが、タイを知る人は、「あー、ソンテオだ」と思うだろう。トラックの荷台に座席をつけた「トラック・バス」だが、ヨーロッパが起源か? 

 隣りにあるイタリア映画史の建物の展示は、昔のイタリア映画を割と見ているので、あまり退屈しなかった。名作「道」に関する展示は当然あるだろうと思ったが、なぜかなかった。「自転車泥棒」はごく一部をビデオでも紹介していた。1960年代に見て以来だが、ストーリーは割合覚えている。失業した男が、政府の広報ポスターを張る仕事を得る。自転車を持っていることが条件だ。仕事中、壁にポスターを張っているときに、自転車を盗まれる。そのシーンを流している。
 たった1分ほどのシーンだが、「あれ?」変だと気がついた。まず、大事な商売道具の自転車にカギをかけていなかったこと。戦後まもなくの荒れた社会状況の世間で、カギをかけずに自転車を路上に置いておくという行為は信じられない。
 もう1点気になったのは、泥棒の相棒が仕事中の男に話しかけて注意をそらすのだが、相棒は自転車越しに話かけている。うまく盗むなら、止めた自転車の反対側から話しかけ、その間に後ろから泥棒が近づいて盗めばより簡単だ。カマラ位置優先で、こういうおかしな角度になったのだろうか。


 自転車泥棒」の、自転車が盗まれて悲しみのシーン。イタリア映画を何本か見て、なぜか男の子がよく出てくると思ったものだ。

 この時代の映画は「ネオレアリズモ」といわれる潮流の1作なのだが、こういう細かい部分ではリアリズムではない。「自転車泥棒」のほかに動画でわかったのは、「苦い米」と「アマルコルド」(1973)だ。「苦い米」をよく覚えているのは、イタリア人が日本人と同じように田植えをしているシーンで、西洋人も稲作をして米を食べるのだという事実を、日本の高校生が知ったのである。映画を食文化の資料として記憶したのだ。


 Riso Amaroは「苦い米」のこと。「無防備都市」のセットを復元したものもあり、その映画は、のちに朝日新聞天声人語」を書く深代惇郎がほぼ同時代に見ていた(『深代惇郎の青春日記』朝日新聞社,1974)。

 1960年代のイタリア映画はマカロニ・ウエスタン(イタリア製西部劇映画。英語ではスパゲティ・ウエスタンという)の時代でもあり、多分半分くらいは見ているだろう。見たくて見たのではなく、名画座の2本立て上映の「もう1本」だったからだ。1970年代になると、「キネマ旬報」を愛読する芸術映画ファン向けのイタリア映画が多くなり、私はアメリカン・ニューシネマの方に進んだ。以後、イタリア映画はほとんど見なくなった。1980 年代以降だと10本も見ているかどうか。
 旅をすると、旅先で映画を見ることが多い。その国の映画をその土地で見る楽しみがあり、暇つぶしの有効手段でもあるからだ。ローマでも、「映画館があれば見たい」と散歩しながら、きょろきょろ見回していたのだが、映画の看板は見つからなかった。郊外のショッピングセンターに行けば、シネコンプレックスがあって、イタリア映画を見るチャンスがあったかもしれないが、見つからなかった。観光案内所に行けば、映画館の場所を教えてくれただろうが、そこまで熱心になることはなく、「まあ、どこかで、偶然に映画館が見つかれば、散歩の休憩を兼ねて映画でも・・」という程度の関心であった。トリノでは映画館の前を通りかかったのだが、つまらなそうなアメリカのアクション映画、その1、その2のような作品のようだったので、見なかった。