1104話 イタリアの散歩者 第60話

 カラバッジョと光の自動販売

 ローマのサン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会でカラバッジョの「マッテオの召出し」を見た時のことを、須賀敦子は「ふるえる手」(『トリアエステの坂道』収載)でこう書いている。
 「(教会に)入っていくと、『マッテオの召出し』がある左手の祭壇は、窓になっているはずの壁面も二幅の絵でふさがれているために、外光が完全にさえぎられて、まっ暗なものだから、壁にとりつけた鉄製の小箱に二百リラのコインを入れると、ぱっと照明がつく仕掛けになっている」
 この部分で目が留まる人は多くないかもしれないが、私はイタリアから帰国してからこの文章を読んだので、「あー、そーだよな。光の自動販売機の話だよ」とわかる。須賀敦子のこの体験がいつのことかわからないが、「ふるえる手」の発表は1992年だ。
 話は、パスタ博物館を探す私の散歩から始まる。ローマにパスタ博物館なるものがあるなら、ぜひとも行きたい。地図を見ながら出かけたのだが、みつからない。路地をうろうろしているところで出会ったイギリス人夫婦に、その博物館のことを話したら興味を持って、スマホで検索してくれた。わかったのは、「ここではなく、ずっと北」ということで、翌日ローマの北に出かけた。実は、もうこの時にはパスタ博物館は閉館していたのだが、インターネット情報では「移転」という誤情報が載っていたようで、そういう事を知らない私は、イギリス人が「このあたり」と地図に印をつけた場所、ローマの北に行ったが見つからない。「前川が博物館を探すと、存在が確認できないか、たいてい閉館している」という散歩の法則だったと諦めて、テベレ川沿いに南下した。
 だいぶ歩いて行くと、左手にボルゲーゼ公園が見えてきて、ポポロ広場に出た。ローマの地図を見た時から、ポポロという名が気になっていた。東大ポポロ事件(1952年)が頭にあったからだ。広場に来て、”Plaza del Popolo”という表示を見て、これは英語なら”People”なのだろうと想像できた。東大ポポロ事件が、東大構内で開かれた劇団ポポロの公演に私服警官が紛れ込んでいたということが事件となるのだが、それで「ポポロは人々」という意味がつながった。


 ポポロ広場から坂を登りナポレオン1世広場に出ると、眼下にポポロ広場そしてその向こうにバチカンが見える。

 そんなことを考えながら広場を散歩していて見えてきたのが、サンタ・マリア・デル・ポポロ教会で、少々退屈だったし、実はもしかしてトイレがあるなら、ここで寄って行こうという下心もあって、入場無料の教会に入った。どこかの壁際にトイレへの出口があるかもしれないと教会のなかを歩いていたら、奥の左隅が明るくなっていて、なにかの絵があることがわかる。近寄ると、突然照明が消えて、真っ暗になった。このアジア雑語林の1095話のエウルの博物館で書いたように、照明に不備がある教会で、イタリアの不具合の例が増えたかと思っていたら、突然照明がついて絵が浮かび上がった。のちに、それもカラバッジョだと知るのだが、美術に興味のない私は、絵よりもすぐ近くにある金属の箱の方が気になった。近寄ってよく見ると、それが「光の自動販売機」だとわかった。1ユーロコインを投入すると、数分照明に電気が通る。暗闇に絵が浮かび上がる。そういうシステムになっているというわけだ。宗教施設である教会に入るのにカネを取るという行為を潔しとしないが、カネは集めたいというのなら、実にいいアイデアだ。
 照明がまた消えた。さあ、誰がコインを投入するか? そちらの方がおもしろそうで、暗闇のなか、誰かが「自動販売機」の前に表れるのを待っていた。ふと回りを見ると、私とは違う動機で、誰かがコインを入れるのを待っている人がいて、誰かのコインで照明がつくと、カメラを絵に向ける人たちがいる。カラバッジョの「聖パオロの改宗」よりも、人間の吝嗇の方がおもしろい。


 右の小箱にコインを入れると、


 暗闇に明かりがついて、カラバッジョの絵が浮かび上がる。

 ちなみに、この教会には旅行者が使えるトイレはなかった。