1119話 ダウンジャケット寒中旅行記 第3話

 おしゃべりをちょっと

 前回のモロッコ旅行でもわかっていたのだが、英語をしゃべるモロッコ人がじつに多い。その英語力のレベルは様々だが、おかげでだいぶおしゃべりをした。
まずは宿のマネージャーとラバトに関する雑談をした。予想を超えて寒いので、気候の話もした。
 旧市街のなかに、今では珍しいのかもしれないがCDショップがあって、モロッコ音楽の解説をしてもらいながらCDとVCDを買った。1枚15DH(ディルハム)、日本円にして200円弱。大量に買いたかったが、旅が始まったばかりなので、少しにした。
 市場のスパイス屋。ある程度はその正体がわかるが、何種類も混ぜたものがあり、「さて、これは食用か、香にするのか」といぶかしく思っていたら、青年が「それはタジンに使うんですよ」と解説してくれて、タジン(鍋)の料理法を教えてくれた。
駅で時刻表を探していたら、「何か、お手伝いしましょうか?」と声をかけてきたのは大学生のグループだろうか。事情を話すと、英語に自信があるにちがいない女子大生が、「時刻表がどこにあるかわかりませんが、これでわかると思います・・・」と言いつつスマホを操作して、ラバト発タンジェ行きの時刻表を見せてくれた。
カタコトのフランス語とアラビア語で会話をしたこともあった。
 ラバト2日目の朝、ドアをノックする音で目が覚めた。時計を見た。10時。ホントかよ。目覚まし時計を使わなくても早い時刻に起きるだろうと思ったが、時差の混乱で、だいぶ寝てしまったらしい。ドアを開けると掃除道具を手にしたおばちゃんがいた。
 「アンコール?」と何度か言った。
 おそらく、きょうも泊まるのかという意味だろう。
 「ウイ、ウイ。アイワ」とフランス語とアラビア語で答えた。
 それで、意思は通じた。
 もう起きる時刻だから、歯ブラシを口にくわえて部屋を出た。シャワー&トイレ共同の部屋だから、向かいの部屋で歯を磨く。
 おばちゃんが何か言う。そのフランス語はわからないが、廊下の椅子を指さし、座る格好をして、指で上をさしながら、「ドゥー」と言いつつ、指を2本出した。そのジェスチャーでわかった。我が部屋の向かいのシャワー&トイレは、しゃがむタイプの、いわゆるアラブ式あるいはトルコ式と西洋人が呼ぶ便器なのだが、上の階には腰かけ式の便器を備えたトイレがありますよという意味だと理解した。洗面後に2階に上がると、その通り、腰かけ式便器にトイレットペーパー付きの清潔なトイレがあった。
 私はフランス語もアラビア語もわからないのに、おばちゃんは顔を合わせれば話しかけてきた。何とか理解できたこともあれば、まるでわからないこともあった。「寒いね」とか「雨だ」とか言って、笑ったり、顔をしかめたりした。台湾でもスペインでもポルトガルでも、絶えず話しかけてくるおばちゃんに、孤独な旅行者はだいぶ救われた。
 ラバトを出る日の朝、掃除中のおばちゃんに会って、「ありがとう」と言おうとして、言葉に詰まった。グラツィエ(イタリア語)やグラシアス(スペイン語)は頭に浮かんだが、メルシー(フランス語)はすぐに出てこなくて、アラビア語の方が先に出てきた。
 シュックラン!
 しかし、「さよなら」というアラビア語は忘れたので、「オーボワール」とフランス語にした。おばちゃんも笑いながら、「オーボワール!」。



 たまたま泊った宿だが、1930年代を舞台にした映画で使えそうな雰囲気があった。階段の曲線とタイルと木が美しかった。



 旧市街の道路も路地に入ると商店が並び、活気がある。石鹸や香料と香辛料を一緒に売っている。

 墓地の向こうに地中海。よそ者は門をくぐることをはばまれた。