1143話 父と機械と自動車と 前編

 昨年秋のローマのある夜、珍しく父が夢に出てきた。夢の中の父は、「たまには、オレのことも思い出してくれよ」と言った。旅をしていると、母のことは折に触れ思い出すのだが、父のことはめったに思い出さない。父は1980年代に死んでいるから、「時間がたったから、あまり思い出さない」ともいえるが、関係が薄かったからともいえる。中学時代から60代で父が死ぬまで、父とじっくり話をしたことがなかった。

 父が死んで、父のことは何ひとつ知らないことに気づき、昔の話を母に聞いたことがある。ところが、父の話となると、母はどんな話題からでもグチになるという傾向があり、年老いてからさらに激しくなった。夫婦仲が良かったとは到底言えない父母だった。
 「あのときは、ホント情けなかったのよ」と、何の脈略もなく母は突然話し出した。私が子どもの頃の生活の話を聞き出そうとしていたら、何かを思い出したらしい。
 父は建設会社の技術職だった。私が小学校に入る前から単身赴任になっていて、父に会うのは数か月に一度くらいだった。
 「給料が遅配になることがよくあってね、工事が終わるまで工事費が支払われないから、工期が伸びれば、月給がひと月でもふた月でも遅れることなんか、しょっちゅうあったのよ」
 昔は給料が銀行振り込みということはなく、現金払いで、父は数か月に一度の帰宅だから、母はいつも生活費のやりくりに苦労していたというが、子供の私は、そんなことはまったく知らない。食べ物に苦労したという記憶はない。
 いつ払われるかわからない月給を待ちながら、日々の生活費や子供たちの学費や修学旅行費や、税金などを考えつつ貯金をして、生活費が足りなくなって貯金を下ろしと、あれやこれやと想定して、やりくりしているなか、父が帰宅した。
「あのときは、ホントにもう、呆れて、情けなくて・・・。自動車を買って、帰ってきたのよ」
 そうか、思い出した。1960年前後、父は福島県奥只見ダムの工事に関わっていたのだ。そして、その福島から、「いすゞヒルマン・ミンクス」(1500cc)に乗って帰宅したのだ。遅配になっていた給料がまとまって支払われ、気が大きくなって、中古とはいえ、自動車を買ってしまったのだ。
「こっちは苦労して、やっとのことで生活しているというのに、自動車なんか買って!!」と、母が文句を言うと、父は「いままで食えていたんだからいいじゃないか。来月からまた給料がもらえるんだし」と言ったので、油に火がついたと、母の思い出話。
 のちに、大人になってから考えたのだが、父は機械屋で、機械いじりは仕事であり趣味でもあるので、自動車が欲しかった気持ちはわかるが、これは明らかに無駄遣いだった。父が仕事をしている奥只見では、移動には自由に使える会社のジープやトラックがある。自分のセダンなど必要ないのだ。買った車を自宅に置いておいても、運転する人はいない。自家用車は、必要ないのだ。おそらく、酔った勢いで、気が大きくなり、もしかすると「オレの車、買わないか。安くするぜ」などと言われて、「よし、買った!!」などと口走り、もらったばかりの現金を手渡したというような出来事があったのかもしれない。
 父の酒は、飲んで暴れるといったことはまったくなかったが、母にとってはカネがどんどんなくなっていくのが許せなかったようだ。酒の誘いは断れず、大酒を飲み、景気よくおごってしまう酒だったのではないか。だから、給料のかなりの部分が酒に消えた。二番目の姉が生まれるという時も、いつも通り近所で飲んでいて、帰ってこなかったことを、母は生涯許さなかった。
 突然自動車を買ってしまった父は、母にさんざん文句を言われたが、数日間自宅で過ごした後、ヒルマンに乗って福島に帰って行った。そのヒルマンをもう二度と見ることはなかったから、福島で売り払ったのだろう。しかし、それから1年ほどたった年末、今度は日産オースチンに乗って帰ってきた。当然、母は怒り狂ったに違いないが、子供がいないときの夫婦喧嘩だったのだろう、私の記憶にはない。オースチンは正月をウチで過ごし、成田山に初詣でに行き、福島に帰って行った。車を買うというのが、単身生活のストレス発散法だったのだろうか。