1144話 父と機械と自動車と 中編

 
 父は岩手県の農家の二男として生まれた。私の祖父、つまり父の父は若くして死に、年の離れた兄と姉に育てられた父は、小学校を卒業すると、村人のつてを頼って、東京に働きに出た。村に父の仕事はなかったからだ。東京の材木屋や肉屋で働いたといった話は断片的に聞いたことはあるが、詳しい職歴は一度も聞いたことがない。そのことに気がついたときには父はすでに死んでおり、母に聞いたが、結婚前のことは母もよく知らず、そのうちに母の記憶力も衰え、結婚後のことさえよくわからなくなっていった。
 父が死んだあと、遺品の整理をしたら、横須賀の工業専門学校に通っていた資料が出てきた。何かの仕事をしながら、夜間の学校で機械や電気の勉強をしていたらしいのだが、昼の仕事が何だったかわからない。
 子どものころの父の写真が1枚だけあった。1920年代の、岩手の農村の小学校の記念写真だ。児童はすべて着物を着て下駄をはいている。浴衣のような薄い布なので、夏に撮ったのだろう。その頃の思い出話をたったひとつ聞いたことがある。子供の手は小さいので、父の仕事はランプの掃除だったという。他にも仕事をしただろうが、ランプ掃除以外の話を聞いたことがない。今になって思うのだが、父は子供たちと話をしたかったのだろう。話したいことはいくらでもあったが、残念ながら子供たちは聞く気がなかった。
 父が岩手の小学校に通っていた頃、母は上海の小学校に通っていた。当時の上海は東京以上の大都市で、そこに住む日本人としては、企業駐在員などと比べれば母の家は決して豊かではなかったが、母の父が営む薬局のそばにはアメリカ人経営のパン屋があり、バナナなど熱帯の果物も売る果物屋もあり、たまには家族そろって中国料理店で食事をするというように都会的な生活をしていたそうだ。小学校を卒業した母は女学校に進み、制服に革靴で通学していた。そのころ、父は岩手から東京に丁稚奉公に出たのだ。田舎の少年がひとり東京に向かう日のことを、父から聞いておきたかったと思うのだが、父が生きているときは、父の過去などまったく気にかけなかった。実の父のことなのに、他人事のように考えていた。
 父が死んでからは、いろいろ思い出すこともある。父は母に対して学歴コンプレックスのようなものがあったような気がする。父は小卒で働き始め、同じころ母は上海でモダンな女学校生活をしていたのだが、母の父が急死したせいで学校は中退してから苦労を重ねたのだが、女学校で英語などを学んでいた母が、父はとてもうらやましかったのだろう。
 父は1919年生まれだから、満20歳になる1939年には徴兵されて軍隊に入るのはわかっている。どうせ軍人になるなら先に入っておいた方がのちのち楽だし、生活も楽になると考えたのか、兵隊検査前に志願している。鉄道隊に入り、現在の千葉工業大学がある場所で、鉄道に関する機械と建築土木の知識と技術を身につける。仕事に必要なので、自動車と汽車の運転もできるようになった。
 父が所属する鉄道連隊は中国に向かった。工兵である父は、中国で戦闘したという意識は薄かったようだ。工兵であっても、戦闘は体験し、体に銃創が2か所あり、「まだタマが体に残っている」と、父と一緒に風呂に入ったときに言っていたのを覚えている。体に傷を受けたものの、父の任務は鉄道建設であり、戦争が終わってもすぐに帰国は許されず、鉄道の建設と運営にあたったという。
 そのせいか、日本軍が中国でやったことに関して、「いいことをした」という意識があった。まだ中国を自由に旅行できなかった1970年代後半に、母は上海の女学校の級友たちと、日中友好団体の旅行団のようなものに参加し、以後度々中国に行っている。それをうらやましそうに、なつかしそうに中国を語る父を、母は諫めていた。頭の中が戦時中のままの元日本兵が、戦後の中国で差別的な言動を繰り返している行いを、母は見聞きしているからだ。父が「中国に行く」と言えば反対はしなかっただろうが、「いっしょに行こう」とは決して言わない。かつて、国内をふたりで旅したことがあり、帰宅して、「もう二度とふたりで行かない。文句ばっかり言っているんだから」と、母は嘆いた。以来、冠婚葬祭以外夫婦そろって外出することはなかった。父が中国に行くこともなかった。
 今、父の体の傷のことを書いていて、「体にタマがまだ残っている」という話が本当だったか、確かめる機会はあったのだと気がついた。母が死んで火葬したとき、骨折したときにつけた金属ボルトが骨の中にあって、こんなに大きく重いものが足に入っていたのかと驚いたことを思い出したからだが、父が死んだとき、私は熱帯地域をフラフラしていた。喪主となるべきバカ息子が行方不明だから、火葬の現場に私はいなかった。だから、タマがあったのかどうか知らない。親不孝なバカ息子である。