1145話 父と機械と自動車と 後編


 父が中国から帰国したのは、多分1946年だろう。戦後の日本で、戦友たちの進路は大きくふたつに分かれたようだ。鉄道の知識と技術を生かして国鉄など鉄道会社に就職する者と、土木建設の方面に進む者たちがいた。父は極めて仲の良かった戦友が作った建設会社に入り、焼け跡の東京で働いた。私が池袋生まれなのは、その当時、父は地下鉄丸ノ内線の池袋地域で工事をしていたからだ。
 その話をしたのがいつだったか、覚えていない。20歳を過ぎてフラフラしていた時か、コックをしていた時か記憶にないのだが、私が中学生だった時の話を父がしたことがあった。戦友会での話だ。
 「おい、前川、お前んとこの息子、いくつだ」
 「中学生になった」
 「そうか。じゃ、中学出たら国鉄に入れろ。カネもらって、タダで勉強ができる。国鉄はいいぞ」
 「親方日の丸」の時代で、国鉄には戦友が多い。だから、前川の息子が国鉄に入ってくれば、俺たちみんなで面倒を見る。任せておけ。国鉄なら倒産することはないし、試験を受けて上昇するチャンスもある。町工場や零細企業の社員なんかになるくらいなら、中学を出て国鉄に入り、ちゃんと勉強して、堅実な人生を歩めば、本人のためにも親のためにもなる。そのために、我々戦友が協力する。酔った勢いもあるだろうが、父にそういう話をしたそうだが、私が20歳を超えるまで、父はそんなことはまったく話さなかった。本を読んでいるだけで、機械も電気もまったく興味のない息子に、国鉄職員は務まらないと判断したのであれば、さすが父親とほめるしかない。機械や電気以上に、国鉄という巨大組織が私には気に入らないのだ。国鉄が分割民営化されたのは1987年だ。
 考えてみれば、私の進路について、父も母も、ひとことも言わなかった。これはありがたいことだ。「確実な人生のために、公務員になれ」だとか、「医者、弁護士か、最悪でも教師になれ」とか、「一部上場企業に行け」、「銀行員になれ」などともいわなかった。何をして生きて行こうが、自由にしてくれた。父は、口には出さなかったが、息子が建設会社に入り、「今やっている現場はさあ」などと仕事の話をしながら酒を飲むという幸せな未来を思い描いていたかもしれないが、私はそもそも会社が嫌いで、酒も飲まない。機械や電気の話もできない。旅ばかりしている親不孝なバカ息子である。
 そういえば、私が高校に入ったときに、「運転免許を取らないか」と父が言ったことがある。その当時、16歳で免許が取れる軽自動車免許というのがあったのだ。軽免許は1968年9月1日で廃止されることになっていた。したがって、1952年8月末までに生まれた人は、軽免許が取れるということだ。私は、1952年4月生まれである。軽免許が取れる最後の世代ということになる。軽免許が廃止されると、限定解除の試験を受ければ、普通免許に書き換えられる。父は息子と自動車の話をしたかったのかもしれない。いっしょにドライブしたかったのかもしれないのだが、私は自動車にも運転にもいっさい興味がなく、今も免許証を持っていない。自動車を買いたいと思ったこともない。息子の進路になにひとつ言わない父のおかげで、父とはまったく違う人生を歩んでいる。今年、父が死んで30年目を迎える。
 もしも、死者への供養というものがあるのなら、それは墓参りすることではなく、死んだ人のことを思い出すことであり、どこかに思い出を書き残すことだと思う。