1176話 大学講師物語  その5

 時差


 大学で授業をやることになって困惑したこと、とまどったことはいくつかある。
授業中に出入りする学生が絶えないのが気になった。「こんな授業じゃ、つまらん!」と抗議の意味で退出するのかと思ったが、しばらくすると教室に戻ってくる。トイレに行ったのかと思ったが、そういう学生が多すぎる。どうやら電話をかけるために教室を出るらしい。知人の教授にそう言うと、「学生に注意したら、キョトンとしていてね、なんで注意されたのかわからないという表情だった」。教室を出て電話しているんだから、自分はマナーをきちんと守る学生なのに、なんで注意されるんだと困惑しているようだというのだ。2018年の授業では、授業の最初や途中で合計7回注意したが、途中退出する学生はなくならなかった。
 学生との時差、つまり世代差、年代差といったものも気になった。授業で「例えば・・・」と言って取り上げる話が、若者にはまったく分からないかもしれないという不安だ。2005年に私の授業を受けていた学生は、1985年ごろの生まれだから、社会の出来事などを記憶しているのは、90年代なかばあたりからということになる。今年の学生でいえば、1998年ごろの生まれである。子供がいない私には、これだけで「おいおい、勘弁してくれよな」という生年である。20世紀末の生まれだが、20世紀の記憶はない。ものごころがつき始めるのは、2000年代なかば、10年前はランドセルを背負っていた小学生だ。学生たちにとっては、昭和も明治も同じ「生まれる前の昔」の話なのだ。
 今のテレビ番組の話をすればわかるかもしれないが、10年前では知らないかもしれない。私が体験してきた「ちょっと前の話」を学生たちにどう伝えたらいいのか、考えた。その結果、年代差を意識せずに話そうと思った。同世代相手と同じように話すわけではないが、少し説明はするものの、基本的には何でも話すようにした。私が子供だった頃の教師は、生徒が生まれる前の話も堂々としていたことを思い出したからだ。私にとっては授業そのものよりも、授業中の「余談」の部分が強く記憶に残っている。
 中学時代の数学の教師は、「最後の特攻隊員だった」という体験を語った。終戦からまだ20年しかたっていない1965年、その教師はまだ40前だったかもしれない。あの時代、戦争を知らない教師はいなかった。
 国語教師は、復員列車でのことを話し出した。千葉の実家に帰るため山陽線に乗っていた。列車は少し進んで長く停まるという運行だった。駅で動かなくなった列車から外を見ると、「垂水」という駅名が見えた。今の神戸市垂水区だ。国文学を学ぶ大学生だった元軍人の頭に万葉集が浮かんだ。
 石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも(志貴皇子
 戦争が終わって、これからは昔のように、文学の勉強がまたできるという喜びを垂水駅で感じたんですと、その教師は語った。私は、この歌をすでに知っていたから、教師の話の意味もよくわかったし。「石走る」が「いしはしる」ではなく、「いわばしる」で、岩の上を水が流れる描写だという教師の解説を、今も覚えている。
大学の授業もこれでいいのだと思った。若者にはわからないだろうと決めつけて話さないのではなく、もしもわからないなら自分で調べろという態度でいいと思った。子供のころ大人が話していた「空襲警報」も「灯火管制」も、「外食券食堂」も「配給」も「隣組」も、なんとなくわかった。好奇心と学習意欲があれば、調べるし、覚えている。聞く気がなければ、どんなにていねいに説明しても無駄なのだ。
 そう思ってからは、多少の解説は加えても、基本的には好き勝手に話をするようになった。そして、もうひとつ、私の話が学生にとって将来役に立つかどうかとか、学問的に重要かどうかはあまり気にしないことにした。どの学生にとっても、「将来確実に有益」と断言できる授業は、「日本語の読み書き話す訓練」くらいしかない。将来どういう生き方をするのかわかっていない学生に、いわゆる「学問的な授業」、西洋の学者の名前と理論を列挙して暗記させるような授業が「学問的」というのなら、学問的な授業はしないと決めた。