1178話 大学講師物語  その7

 言語社会学 


 ちゃんとした日本語の文章が書けない学生が4分の1もいるから、翌年最初の授業は、30分ほど正しい日本語の書き方を説明した。しかし、その学期末のレポートでは変化はなかった。そこで、その翌年からは、学期末に学内に張り出すレポートの内容を書いた書類に、「日本語の書式を守って書くように」と書き、もちろん授業でも説明した。しかし、効果はなかった。そこで、次の年に、「日本語の書式を守らないレポートは減点する」と告げた。
 毎年最初の授業は出席者が一番多い。だから、最初の授業で、書式の解説をやる。「減点」という注意が効いたのか、日本語の書式を無視したレポートは25%から10%に減った。それから7年ほどたった今年、2018年のレポートでもまともに字下げ・改行ができない、あるいは無視した学生がやはり10%ほどいた。最初から授業に出ていなかったか、私の話をまったく聞いていなかったのだろう。
 学生の成績は、S、A、B、C、Dの5段階で、D判定というのは不可、つまり単位習得不可ということだ。レポートの減点というのは、「内容的にはAだが、書式が守られていないからBにする」ということなのだが、書式を守っていないが内容的にはよくできているという例は、いままでたった1本しかなかった。書式を守っていないレポートは、内容的にCかDだ。内容的にはやっと合格のCでも、減点してDになるというわけだ。
 授業で日本語を取り上げたことをきっかけに、ほかの言語も取り上げようと思った。日本人は言語に関する知識が弱いのだ。これは、「日本人は外国語が苦手。外国語ができない」という意味ではない。言語事情の知識がないということだ。諸悪の根源は「国語」という語だと思う。「あの人の母国語は・・・」という時の「国語」であり、「彼は5か国語を操る」というときの「国語」でもある。言語=国家、つまりひとつの国にはひとつの言葉という意識が日本人には強いのだ。日本では、日本語だけで暮らせる。日本語がわかれば、役所でもテレビでも仕事場でも、日常生活でも基本的には困らない。しかし、それは世界の常識ではないのだという授業をやってみたくなった。言語学では当たり前だが、母国語は「母語」としないと説明ができないことが多い。フィリピン南部の小島で育った人にとって、「母国語」がフィリピン語であるとは限らない。韓国系アメリカ人1世の母国語とは? といった問題を学生に投げかけた。言語を国家単位で考えないという授業をやった。
 あるいは、標準中国語(普通話)と上海語、広東語、客家語ができる人を、「4か国語を操る」と言えるのかどうか。こういう問題が出てくるから、「4言語」とすればいいのだといったことを話した。
 世界の言語事情を授業で取り上げるために、台湾やマレーシアやインドネシア東チモール、スペインやベルギーなどを調べた。講師になる前はいい加減でよかった知識も、授業で取り上げるとなると、しっかりと調べてかないといけないので、授業がない秋や冬はそういう勉強をしていた。ある国の言語事情を調べることは、その国の歴史や文化を調べることである。政治史や経済史とも深く関係する。いきなりある国の歴史を調べようとしても、あまりに漠然としてよく理解できないことが多いが、言語をテーマにすれば、ベルギーやインドネシアやスペインの近現代史がよくわかる。