1179話 大学講師物語  その8

 人に話す、人と話す


 言語の問題を取り上げたら、日本人と英語というテーマも語らないわけにはいかない。「日本人は英語ができない」という発言はどこの国の人と比べた発言なのかはあまり明らかにされない。仮にその説が正しいとして、それではなぜ日本人は英語ができないのか。大抵は英語教育が悪いからとされるのだが、本当だろうか。もし、各種英語検定試験で好成績を取れば、初任給が3倍になるという企業や役所が次々に現れれば、英語ができる人は急増する。インドネシアやタイのように、英語ができれば観光地で大儲けできる社会なら、皆、英語を懸命に学ぶ。一言でいえば、日本では英語ができなくても生活ができるし、英語ができたところで高額の給料にはならないから、入学試験以外の目的で英語を勉強する人が少ないのだ。もしも、「すべての大学は、英検2級以上が最低限の入学資格とする」ということになれば、英語ができる人が増えるが、それがいい方法なのかどうかはわからない。小学校から英語を義務化したって無駄なのだから、その時間を、ちゃんとした日本語の、読み書き話すことの教育に使うべきだと思うのである。
 さまざまな大学の教授たちと話していると、皆口々に言うのは、「ちゃんと授業に出席する学生が多い」ということだ。「教室には来るけど、勉強しない」とか、「教師が話したことはメモするが、考えていない」といった批判も多い。
 授業中に質問や意見が発せられることはまずない。高校時代までのように、ノートをとる学生は多いらしい。「らしい」というのは、私は黒板にポイントしか書かないから、自分で考えない限り、ノートに書くことがない。だから、私の授業のことはわからないが、聞くところによれば、まじめにノートをとるか、パソコンに打ち込んでいるか、黒板を写真に撮っている学生もいるらしい。
 教師が話し、黒板に書いたことを覚え、それをテストで書けばいい成績がとれる。優等生になれる。そういうシステムで若者たちは生きてきた。ときどき学生に意見などを聞いてみるが、ちゃんとした意見が出てくることはほとんどない。意見が言えるほどの知識がない。知識がないと深く考えない。人によっては考えていないわけではないが、教室で意見を口にしてはいけない「空気」がある。だから発言しない。この現実を英語教育と重ね合わせる。
 小学校から英語教育を義務化する理由は、国際的な世界で活躍する日本人を育成することらしいのだが、話す内容が頭に入っていないと、いくら英語の勉強をしても話せないのだ。授業で発言がないのは、もちろん日本語ができないからではない。言語の問題ではなく、頭の中身の問題なのだ。そして、目立った行為はいじめの対象になるという日本の空気も、学生を無口にする。かくして、日本人は人前で意見を言わない。討論しない。波風立たぬように生きるのだ。打たれる杭にならないように生きている日本人が、英語をどんなに学んでも、堂々と討論ができるようにならない。例外は、「空気を読まない」とか「自分勝手」とか「自己主張が強い」と非難されるような人なのだ。リクルートスーツに身を包んで入社試験に臨み、入社すれば「皆さまとご一緒でけっこうです」という態度が尊ばれる日本では、いくら英語を学んでも、「国際社会で堂々と議論する」ような人間にはなかなかならないのだ。
 だから、英語の文法や発音の勉強をするよりも、日本語でいいから人前で話すこと、あるいは議論することを身につけたほうがいいのだ。日本語で語ることができれば、つたない英語で話すこともできる。語る内容が頭になければ、流暢な英語を身につけていても、何も言えない。
 英語教育関係者は、こうした根本がわかっていない。