1183話 大学講師物語  その12

 講師控室 (2)


 2007年の秋、台湾の財団が主催する食文化シンポジウムに出席した時のことだ。場所はマレーシアのペナン。テーマは「東南アジアの中国食文化」で、私はタイにおける中国食文化の話をした。
 発表者のなかに日本語が堪能な人がいた。香港の大学教授シドニー・チェンさんは、大阪大学で博士号(文化人類学)を取っている。ある夜、チェンさんとたっぷり雑談をした。そのなかで、こんな話になった。
 「今でも、最低、年に1回は日本に行ってますよ。香港の大学が夏休みになったら日本に行って、集中授業をやっているんです」
 「東京の大学ですか?」
 「東京の大学ですが、校舎は埼玉です。新座って知ってます?」
 「立教ですか?」
 「ええっ! 新座校舎を知っているんですか? 立教の観光学部です」
 「なあんだ、同僚というわけですか」
 講師というのは、自分が授業をするその時だけ大学に行くので、横のつながりがない。例え講師控室で顔を合わせても、互いの素性を知らない。
翌2008年の講師控室で、パソコンに向かうチェン教授に再会し、教授たちも交えて食事会をした。
 講師控室でパソコンに向かって調べ物をしている人の中で、すでに顔を知っている人がひとりいた。香山リカ教授。現代心理学部の教授で、顔は知っているが、もちろん話をしたことはない。教授だから個室があるのだが、講師控室でよく出会ったのは自室のパソコンが不調だからかと思ったが、翌年も講師控室によく姿を見せていた。
 講師控室のコピー機の後ろに、透明プラスチックケースの棚が並んでいる。大学や学部から講師への配布資料などが入っている。例えば、なにかの申請が必要な人は、そのケースに入っている書類に記入して提出するといった使い方をする。緊急かつ重要書類は郵便かメールを使うのだが、たんなる連絡用だとこの引き出しを使う。いわば、個人用郵便受けだ。
 外国人語学講師も多いので、引き出しはABC順に並んでいる。ある年のこと、Mのところに、「前川健一」のラベルが2枚貼られていた。引き出しがふたつあるということは、その名前の講師がふたりといるということだ。「おお、ここに現れたか」と思った。それは、こういうことだ。
 以前、調べ物をしていて、ネット画面に「前川健一 学会に出席」という文があることを発見して驚いた。学会に出席したことなどないのだ。同姓同名の学者がいるらしい。調べてみると、私と同姓同名の研究者の専攻は宗教学らしい。その研究者が、よりによって立教の講師になり、しかもよりによって私と同じ埼玉県の新座校舎で授業することになったという偶然だ。講師控室か校内で出会っているかもしれないが姿を知らないので、どういう人物かは知らない。彼は1年か2年で別の大学に移ったらしい。
 新座校舎8号館1階にある講師控室は、じつに快適な空間だった。だから、授業が始まるだいぶ前にここに来て、遅い昼ご飯を食べたり、パソコンで調べ物をしたり、じっと考え事をしていた。パソコンは授業で話す内容の最終確認をすることが多かった。取り上げる人物や事柄の正しい漢字表記をチェックしておかないと、黒板に書くときに誤字を書いてしまう。人物の生年と没年の確認もした。辞書類も豊富だから、英語をはじめ、スペイン語やフランス語の単語の確認もした。自宅で調べ物をしていて、インターネットでおもしろい論文を見つけたときは、大学に来てプリントアウトすることもあった。役得である。そういうことをしている時間が楽しかった。
 講師控室で快適に過ごすことができたのは、スタッフの努力に負うことが多い。いつもおいしいお茶を用意してくれていた。私のように、教室のAV機器やパソコンの操作に疎い者をいつも支えてくれた。優しく親切で、講師が快適に過ごせるように、いつも細やかな気遣いをしてくれた。すばらしいスタッフたちだ。
 私は事務能力が欠如しているポンコツだから、教務など他の課のスタッフにも迷惑をかけた。提出しなければいけない書類の期限を忘れていたり、デジタル入力するときのパスワードを忘れてしまったり、まあ、いろいろやってしまった。悪いのはすべて私だ。そういう欠陥講師を、スタッフたちが助けてくれた。
 すべてのスタッフに謝罪と、ただただ感謝。ありがとうございました。