1187話 大学講師物語  その16

 私の旅行史研究 (4)


 日本のバックパッカー黎明期をずっと調べている。
 先日、旧知の吉村文成さんに会い、旅の話をした。吉村さんは京都大学にいた8年間探検部に所属して旅をしていた。卒業後、朝日新聞に入りインドやインドネシア特派員もした。定年退職後の今は、喫茶店のおやじをやっている。
 吉村さんに会ったら聞いてみたかったのは、梅棹忠夫のことだ。この1年ほど、梅棹の本をまとめて読んでいて、「もしかして、日本のバックバッカーのひとつの源は梅棹忠夫かもしれない」と思い始めているので、長らく京大探検部にいた吉村さんの意見を聞いてみたくなったのである。
 バックパックとはbackpack(背・袋)であり、ドイツ語のrucksack(背・袋)を英語に翻訳したものだ。だから、バックバッカーとは「リュックサックを背負う者」という意味であり、主に野外行動をする旅行者をさしていた。今でも”backpacking”で検索すれば、アウトドア用品の案内や、キャンプの仕方などのノウハウが出てくる。
 バックパッカー関連の資料に、「小田実は日本のバックパッカーの元祖である」と書いているものがあるが、「それは、ちがうなあ」という違和感がある。バックバッカーという語のそもそもの意味を考えると、別の人を探したくなる。小田と野外生活は結びつかないのだ。
 梅棹は、もともと登山の人だった。少年時代から京都を中心にしばしば山登りをしていた。ところが、ある時期から「垂直移動から、水平移動へ」と変わっていく(『山をたのしむ』ヤマケイ文庫、2017)。『白頭山の青春』(1995)は、1940年、旧制高校3年生の梅棹が友人とともに白頭山(現在は北朝鮮)に登った記録なのだが、登る前の話も長く書いている。これ以後モンゴルなど水平移動をするようになっていく。山には登るが、より高い山、より困難なルートを選ぶ山登りはしなくなる。
「人間とか文化に興味をもったからでしょうかねえ」と吉村さんに聞くと、
「そうだと思いますよ、きっと」と同意してくれた。
 水平移動に変わった理由はほかにもあると思う。山に登っているだけでは、研究者としてメシが食えないのだ。文化や動植物を相手すれば、研究者としての仕事がある。京都大学で探検部を作ったのは、山岳部員だった本多勝一だ。海外旅行が自由にできなかった時代、探検部には「探検」を口実に外国に行く方法を探している若者が集まっていた。のちに食文化研究者になる石毛直道もそうだ。高校時代の話を、石毛さんから直接うかがったことがある。
 「外国に行きたい」と強く願う少年だった。金持ちの子供ではないから、タダで外国に行くために船員になろうと思い、商船大学の受験を考えた。ただの若者が、さまざまな国にタダで行こうとしたら、船員になるのが手っ取り早い。かつてそういう時代があったから、私は船員の本も読書範囲に入れている。石毛さんは、特定の「どこか」に行きたいという若者ではなく、とにかくいろいろな国に行きたいと思っていた。それは学者になってからも変わらない。石毛さんは特定の地域や民族の専門家になる道を選ばなかった。だから、留学ではなく船員を考えたのだろう。船員志望と同時に、考古学を学びたいという希望もあり、結果的に船員として外国に行くという道をあきらめて、考古学を学ぶために京大に進んだ。入学した京大には、2年前にできた探検部があった。探検部に入ると、すぐさま外国(トンガ)に行くチャンスが巡ってきたというわけだ。
 海外旅行が自由化される前、なんとしてでも外国に行きたいと願う若者たちは、創意工夫をして日本を出た。『ボクの音楽武者修行』の小澤征爾であり、『どくとるマンボウ航海記』の北杜夫である。若き三島由紀夫開高健も、外国に行ける仕事を積極的に利用した。