1188話 大学講師物語 その17

 私の旅行史研究 (5)

 石毛直道さんは1958年京大入学、吉村文成さんは2年遅れて1960年に入学し探検部に入った。吉村さんの大学生時代は8年間にわたるので、在学中の1964年に海外旅行が自由化されることになった。すると、京大探検部員も従来の探検・冒険派と、ただ自由に旅をしたいだけという学生の2派に分かれた。自由化以前は、日本人が外国に行くためには、その渡航が日本にとって有益であると認められる必要があった。政府の許可がないと、自由に渡航ができなかったのだ。だから、渡航する大義名分をでっちあげ、企業を回って寄付を集めるというのが、いままでの探検・冒険であり、それはとうぜん団体行動であった。1964年の海外旅行自由化以後、大義名分は必要がなくなった。探検部に入らなくても、旅行費用をなんとかできれば、個人で海外旅行ができるようになった。
 吉村さんは、従来の探検や冒険から距離を置いた最初の部員のひとりだった。自由化前には、「カナダ・エスキモー学術調査」というもっともらしい名目をでっちあげて北アメリカ旅行をして、在学中に『アメリカ大陸たてとよこ』(吉村文成・島津洋二、朝日新聞社、1964)を書いた。北アメリカから帰国してしばらくすると、「外貨規制が解除され、だれでも海外観光旅行ができるようになりました。私は単身で東南アジアに出かけ(意外に安上がりなことを発見して)しばらくの間、インド・ヒッピーとして暮らしました」という学生だった。引用した文章は、あとで触れる『京大探検部』。
 吉村さんより2年後の1962年に京大探検部員になった鳥居正史は、1964年に海外旅行が自由化された喜びをこう書いている。「私にとって、IMF八条国移行(海外旅行自由化のこと。前川注)ということはあまりに衝撃的だった。先生や先輩が組織した探検隊に加わらなくても、自分一人の力で海外に行ける時代になったのだ。怖いもの知らずの私が個人で海外に飛び出すことを決心するのに時間はかからなかった」。そして、1964年5月、神戸からヨーロッパに向かって船出した。探検部員が、北欧で皿洗いして旅行資金を稼ぎヒッチハイクの旅をするようになる。そのいきさつは、『一九六四年春 旅立』(鳥居正史、幻冬舎ルネッサンス、2012)に詳しい。上に引用した文章もこの本から。ヘルシンキにいた1965年、小説家の卵がやって来て、皿洗いで旅行資金を稼いでいる若者に取材したという話がでてくる。小説家はその時の取材をもとに書いた小説でデビューする。五木寛之の『さらばモクスワ愚連隊』である。
 そうしたいきさつは、『京大探検部 1956〜2006』(新樹社、2006)に詳しい。この本は、戦後の若者がいかにして日本を出て行ったかを知る名著だ。日本のバックバッカー研究の必読書だ。普通の読みものとしても、すばらしくおもしろい本だ。この『京大探検部』と若者の旅の話は、2012年にこのブログ448話ですでに書いている。
 海外旅行が自由化された1964年以後、海を渡った若者たちの装備は、留学生や移住者を別にすれば、登山部と同じだった。リュックサック(横長のキスリング)と寝袋やテントだ。貧乏旅行のノウハウは、登山部やワンダーフォーゲル部のものだ。国内を旅する若者は横長のキスリングのせいで「カニ族」と呼ばれ(おもに1970 年代)、北海道に大挙出没した。外国を目指した若者は、キスリングを背負ってシベリア鉄道かフランス郵船に乗った。ただし、カニ族と海外貧乏旅行者とはどうリンクするのか、私にはよくわからない。カニ族のうちどれくらいの若者が外国に出たのか知りたいが、そういう資料や証言を知らない。根拠のない想像なのだが、インド帰りとシンクロするのは北海道ではなく沖縄や奄美諸島だ。奄美→沖縄→東南アジア→インドというルートのほうが、私の想像力を刺激する。
 日本には、バンコクの安宿カオサンに行って旅行者にインタビューする程度の学者はいるが、旅する若者の大潮流を調べてみようという人はどうやら私以外にはいないようだ。それが、針の先のようなマイナーなテーマだとは思わないのだが、残念ながら若き研究者を刺激するテーマではないらしい。