1219話 プラハ 風がハープを奏でるように 第28回

 ベラ・チャスラフスカ その2

 

 プラハ共産主義博物館以後、チェコを旅していて、若きベラ・チャスラフスカの写真に何度か出会った。2018年は、チェコスロキアが独立した1918年からちょうど100年ということで、各地で「1918~2018」と題した催事が開かれていた。チェコの現代史を示す写真のなかに、ベラの笑顔が何枚もあった。

 彼女の名前はチェコ語でVěra Čáslavskáだから、近い発音をカタカナ表記すれば「ビエラ・チャースラフスカー」のようになる。eの上に記号がつくとieの音になるのでvieraという発音になるのだが、慣用を重んじベラ・チャスラフスカとし、長いのでここではベラと書く。

 彼女が体操界で頭角を現すのは、1957年のチェコスロバキア選手権に出場した時だ。15歳だったが、ジュニア部門ではなく一般女子の部で6位に入ったときだろう。以下、年表風に活躍を書き出してみよう。

 1960年 国際大会(プラハ)で優勝。オリンピック(ローマ)では団体総合2位。

 1961年 ヨーロッパ選手権東ドイツ)で個人総合3位

 1962年 世界選手権(プラハ)で個人総合2位。種目別では跳馬で優勝、徒手(床)で3位

 1963年 プレオリンピック大会(東京)で総合3位。跳馬段違い平行棒で優勝、徒手(床)で2位。

 1964年 東京オリンピック平均台跳馬で優勝。個人総合でも優勝し、合計3個の金メダルを獲得し、いままで首位を占めていたソビエトに勝利した。団体総合はチェコスロバキアが銀メダル。 

 東京オリンピックの次が1968年のメキシコ・シティだが、チェコスロバキア人にとっては、このコラムで何度も説明してきたプラハの春と、それがソビエトを中心としたワルシャワ条約軍によってつぶされたチェコ事件があった、あの1968年である。

 1968年1月5日、スロバキア共産党第一書記のドゥプチェクがチェコスロバキア共産党の第一書記に就任した。これにより、「人間の顔をした社会主義」を進めるために、検閲を廃止し、自由化に動き始める。

 6月27日 二千語宣言発表。ザトペックやベラらが署名。

 8月20日 ワルシャワ条約軍がチェコスロバキアに侵攻。プラハは戦車でうまる。

 10月12~27日 メキシコ・シティーでオリンピック開催。

 メキシコのオリンピックとプラハの春が同じ1968年だということは知っていたが、オリンピックの後にワルシャワ軍の侵攻があったのだと思っていた。首都を戦車に占領された状況では、とてもオリンピックに参加などできないだろうと思っていたからだ。

  現実は違った。出場が危ぶまれていたチェコスロバキア選手団は、いろいろと障害があったもののメキシコに来た。そして、ベラはソビエト選手に勝った。個人総合、跳馬段違い平行棒、床で金メダル。団体総合は銀メダルだった。床はソビエトのラリッサ・ペトリクと同点1位だった。その授賞式では、チェコスロバキア国旗とソビエト国旗は1本の棒で同位に掲揚され、国歌演奏はチェコスロバキアが先だった。後半のソビエト国歌演奏になると、ベラは視線を右下に外し、ソビエトチェコ侵攻に静かに抗議した。その映像がある。

https://www.youtube.com/watch?v=SyYMcLwKreo

 ウィキペディアでは床ではなく「平均台競技で・・・」と長い解説をしているが、上の映像が残っているのでおそらく勘違いだろう。やはり、ウィキペディアの信頼度は低い。

 1968年のメキシコ・オリンピックと言えば、アフリカ系アメリカ人選手が、表彰式で黒い手袋をした手を空に突き出すという姿で民族差別に抗議した。その結果、オリンピックに政治を持ち込んだという理由で金メダルを剥奪された。その事件は、ベラの床運動の9日前だったので、メダルを剥奪されるような抗議はしないように、「ギリギリの線を考えて、顔を背けました」(『桜色の魂』(長田渚左)と、ベラは後日語っている。

 1970年6月 ソビエトと対抗してきた共産党の改革派幹部は除名され、プラハの春は終わる。ソビエトの意のままに政治をする「正常化」の時代に入る。

 今書いた情報は、調べたことを書いただけで、同時代体験があったわけではない。「チェコの体操選手ベラ・チャスラフスカ」という名前だけは知っていたが、今回このコラムを書くまで、詳しい出来事は知らなかった。私にとってのベラ・チャスラフスカは、ソビエトに対峙した凛々しい体操選手だった。

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1968年10月。メキシコ・オリンピックの金メダルと抗議。ジミ・ヘンドリックスの「エレクトリック・レディランド」発売。チェスキー・クロムロフの地域博物館の「1968年展示」

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 プラハでも各地区で「1918~2018展」や、「1968年から50年展」の写真展が開催されていた。

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1964年、東京オリンピックから帰国したベラとその写真説明。

そして、1968年。

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プラハ市立博物館前でも、写真展

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 ソビエト軍の侵攻に抗議して焼身自殺した若者、ヤン・パラフとヤン・ザイーツの追悼碑がバーツラフ広場にある。