1220話 プラハ 風がハープを奏でるように 第29回

 ベラ・チャスラフスカ その3

 

 メキシコ・オリンピックで大活躍したベラは英雄となり、同じくオリンピック陸上選手のヨゼフ・オドロジルと結婚した。ソビエトに支配されたチェコスロバキア政府は、解放政策を支持し他国の妨害を許さないという趣旨の「二千語宣言」に署名した者を、反ソビエト思想の代表的人物とみなし、英雄となったベラを表舞台に立てないようにした。すべての職に就くことを禁じる兵糧攻めだ。外国、特に日本で人気の高いベラを陰に日向に応援する人たちがいて、様々な手を尽くして国際的な場に連れ出し、金銭的な援助もした。しかし、国内的には、世間から抹殺された状態に放置された。

 そして、1989年の民主化ビロード革命で再び注目を浴びて、1990年にハベル大統領の補佐官に就任した。同時に、オリンピック委員会会長、チェコスロバキア・日本友好協会名誉会長など、一気に表舞台に立つ。

 1993年、悲劇が起こる。別荘近くのディスコで、息子のマルティンと、すでに離婚している元夫オドロジルが出くわした。泥酔している元夫は、店内で騒ぎを起こし、止めに入った息子が父を殴り、倒れ、頭を打って死亡したという事件だ。

 このスキャンダルで、世間は一気にベラ非難に傾いた。多くの国民は共産党政権時代、「正常化」の圧力に屈して、政権に恭順の意を表した。簡単に言えば、本意であるかどうかにかかわらず、転向することで、普通の生活を取り戻したのだ。しかし、ベラは屈しなかった。過去を後ろめたく感じていた人たちは、ベラの姿がまぶしくて、ジャンヌダルクのスキャンダルに留飲を下げたのだろう。前夫の実家が権力筋であったということもあり、表現の自由を得たマスコミはありもしない話をでっちあげ、ベラを蹴落とした。後藤正治はそう解説する。

 非難を浴びた結果、今度はベラが自分自身を閉じ込めた。うつ病となり、外部との接触を断ち、入院生活を送ることになった。ノンフィクションライターの後藤正治がベラの本を書きたいと思い、何度も接触を試みたが果たせず、ベラとは通訳を介しての質問状のやり取りしかできなかった。『ベラ・チャスラフスカ 最も美しく』(文藝春秋)はそういう不自由で不幸な事情で取材し、2004年に出版した。

 医者から、「もう回復することはないだろう」と言われていたベラは、14年間の沈黙の後、奇跡的に社会に復帰した。長田渚左は、回復したベラと会い、何度か長時間のインタビューをしている。その取材が結実したのが、『桜色の魂 チャスラフスカはなぜ日本人を50年も愛したのか』(集英社)で、2014年に出版した。この本の最後はモハメド・アリの話で締めくくっている。ベラもアリも、ともに1942年生まれで、ともに18歳でローマ・オリンピックに初出場し、金メダルを獲得し、その後波乱にとんだ人生を歩んだ。この本は2014年に出たので、そのあとの事情をここで書き添えておく。

 モハメド・アリは、2016年6月3日、敗血症ショックで死亡。74歳。

 ベラ・チャスラフスカは、2016年8月30日、膵臓ガンで死亡。同じく74歳。亡くなる前年の様子を長田渚左は次のように書いている。

https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/othersports/other/2015/10/12/51/index.php

 1942年生まれの人を、あとふたり、私のこのブログですでに触れている。浅川マキは2010年に亡くなっている。同じく1942年生まれのマルタ・クビショバーは今も元気に歌っている。2017年の歌声がユーチューブで見つけた。

「マルタの祈り」2017年。

https://www.youtube.com/watch?v=rxa4qxgp7Fc