1221話 プラハ 風がハープを奏でるように 30回

 建物を見に行く その1 国立産院

 

 プラハに着いてまだ間もない日の遅い午後、洗濯を終えたあと宿の近所を散歩することにした。宿は新市街にあるのだが、プラハの「新市街」というのは、中世の旧市街に対する近世の新市街だから、100年から200年くらいの建物が並んでいる。プラハは幸運にも空襲されることがなかったから、昔の建物がかなり残っている。第二次大戦後、不幸にもソビエトの支配を受けたことで経済的に停滞した結果、古い建物が壊されガラス張りの高層ビルが立ち並ぶ街にはならなかった。経済の停滞が古い建物を残すという点では、チェコポルトガルも同様である。こういう例を、私は日本の旧宿場町になぞらえる。明治に入って鉄道の時代になると、江戸時代に栄えた宿場町が取り残された。長野県の奈良井宿妻籠宿のように、古い街並みを残そうとした結果ではなく、残ってしまった江戸の街並みが観光の時代を迎えて脚光を浴びるようになるというのが、外国ではプラハでありリスボンだ。

 宿の前の大通りは1階が商店で、その上がアパートになっているような建物が並んでいるのだが、表通りからちょっと裏手に入ると木立の中に塀が見えた。近づくと、塀の中に黒いレンガの大きな建物が見えた。2階か3階の、古い大きな特異なデザインの建物だ。塀で囲まれているから、普通の集合住宅ではないだろう。学校か軍の建物か、それとも刑務所か。東京駅のような、よくある赤いレンガの建物ではなく、黒いレンガが謎めいている。夕暮れ時は、コウモリが飛び交うスリラー映画にぴったりの風景だった。

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 好奇心がだんだん強くなり、この建物の正体を知りたくなった。看板があれば、それを撮影して、のちほど誰かに解説してもらおう。そう思って入口に立つと、チェコ語と英語の看板があった。産院だったのだ。

 

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 国立産院 1875年

 世界でもっとも長い期間にわたって診療を続けている産院のひとつ。設計・施工は、チェコの科学・文化・教育の支援者でもあるヨセフ・ハラーフカ 

 

 国際機関ではないのに、なぜチェコ語と英語の両言語がいっしょになった金属プレートがついているのか、わからない。過去か現在に、イギリスかアメリカの援助があったとすれば、そのいきさつを書いたプレートがあるだろう。

 プラハの本屋で買ったプラハ建築ガイドでこの建物と建築家を調べたが、見つからない。建築的には無視していい程度のシロモノだとわかった。帰国して、ネット情報を頼りに糸をたどってみたが、正確なことはわからない。

 ヨセフ・ハラーフカ(Josef  Hlavka 1831~1908)はプラハチェコ工科大学とウィーンの美術アカデミーで建築を学び、チェコ人が作ったウィーンの建設会社の後を引き継ぎ経営者となったらしい。この会社は、1861~69年にかけて、ウィーンの国立歌劇場建設を請け負ったという。

 ウィーンの歌劇場のあと、プラハで産院の設計・施行をした。同じ時代、ウクライナのチェルノフツィ国立大学(1875年開校)の設計もしている。この写真で見ると、たしかにプラハの産院に似ている。

https://castles.com.ua/residence.html

 画像検索では、プラハのカレル大学医学部の校舎も産院に似たレンガ造りだ。これら、ハラーフカが設計した建物は、ネット資料により、新ゴシック様式とか折衷様式などと説明されているが、私の力では解読できない。ドイツ人旅行者に産院の写真を見せたら、「こういう建物なら、ドイツにいくらでもあるよ」と言われたが、ドイツに行ったことがない私には何も言えない。

 ネット情報では、ハラーフカの肩書は、建築家、慈善家、科学芸術財団の創立者となっているが、詳しい事情が今ひとつわからない。しかし、チェコのVIPだったことはわかる。地下鉄フロレンツ(Florenc)駅の北、ブルタバ川の中之島シュトオアニツェ島を挟んでかかる橋の名が、ハラーフカ橋(Hlavkuv  most)である。この橋は何度かわたっているのだが、橋の名と意味を今知った。

 プラハの建築探訪は、この産院から始まった。