1247話 プラハ 風がハープを奏でるように 56回

 乗り物の話 その10 霧の中、ひとり

 

 その日のプラハは急に寒くなり、霧に包まれた。いままで晩夏という感じだったが、急に秋になった。ちょっと遠出をしようと思ったので、早く起きて、宿の朝飯は食べずに霧の街に出た。

 天然素材で作ったせっけんやロウソクなどを製造販売しているボタニクスという会社が、プラハ郊外で観光農園のようなものをやっているらしいという情報を得た。天然素材といったものにはまったく興味がないが、プラハの郊外を見に行くきっかけとして、とりあえずの目的地に選んだというのが、この日の遠足だ。出発地は、散歩では何度も行っているマサリク駅だ。ここから西の方向に45分ほどの鉄道旅行をする。

 ボタニクスの情報は、これ。

 https://www.czechtourism.com/c/ostra-botanicus/

 2階建ての車両に、乗客はほんの数人。朝方郊外に出る人は少ないだろうとは思うが、これでは廃線確実だなと思った。自由主義経済になって30年、まだこの路線があることが奇跡かもしれない。

 

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 郊外からの通勤者を降ろし、物見遊山の私が乗る。車両の外見はちゃんとしているので何とも思わなかったが、車内は汚れていた。古くてオンボロというのではなく、掃除が行き届いていない感じだが、世界水準で言えば合格だろう。

 

 数人の客しかいない路線なら当たり前か、車内は少々汚れていた。気になるほどではないし、ローマからポンペイ方面に向かう私鉄のボロさと比べれば何倍もマシだが、「端正」という印象だったチェコで、これは意外だった。

 マサリク駅を出たら、古い低層住宅が見え、すぐに農家らしき家。車窓からの風景を楽しもうと思っていたが、霧でよく見えない。チェコ南部のチェスキー・クロムロフへの鉄道旅行をすでにしているが、その時と同じような農村風景で、特にこれと言った印象のない風景だ。一面の牧草地とか、スペインのようにどこまでも広がるオリーブ畑という特徴がない。高い山も見えない。

 45分ほどで、“Ostra”(オストラー)という車内アナウンスが聞こえて、下車。チェコ語の素人でも聞き取れる言語であり、読めるラテン文字表記に感謝だ。

 降りたのは、私ひとり。複線で、ホームが向かい合っている無人駅が霧に包まれている。何かのエンジン音は聞こえるが、人影はない。駅を出ると、道路わきに目的地の「ボタニカルガーデンまで1キロ」という看板があるが、そういう施設がありながら、人影がまったくないというのは不自然だ。いくらなんでも、客が私ひとりというのはおかしいだろう。

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 列車を降りると、畑のなかにポツンと孤立する駅だった。ホームにある黄色い機械は、自動検札機(改札機)だと思うが、無人駅だからキップはうってないのだよなあ。地下鉄のように料金均一制じゃないし。

 

 下車駅が違ったのか? 手元の資料で確認したが、Ostraで間違いない。ほかの情報を調べると、ボタニクスは5月から9月の営業で、きょうは10月に入ったところだ。「あーあ、やっちゃった」とは思ったが、プラハ行きのホームで時刻表を見れば、25分後に列車が来るから、後悔とか自己嫌悪といったものはまったくなかった。居直りでもやせ我慢でもなく、偶然生まれた時間を楽しもうと思った。幸か不幸か、たかが25分の時間つぶしだから、この無人駅から遠出ができない。駅周辺の畑を歩き、ホームで音がするので戻ると、制服姿の男女が大きなビニール袋を持って現れ、駅のゴミ箱をからにして、踏切そばに停めたバンにゴミを積んだ。どういうゴミが入っていたか、すでに調査済みだ。菓子らしきものの、空箱だ。

 列車到着まで、あと5分。おばちゃんが我がホームに現れ、私のほうを向いて“Dobry den”(こんにちは)といきなり声をかけられたので、おどおどしてしまった。

 冬が始まりそうな日の午前中に、何ということはないが、それでも楽しい郊外への旅をした。

 

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 プラハ方面行きのホームにだが、景色が変わるわけじゃない。

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 人影なし。農具のエンジン音だけが聞こえることで、「近くに人がいる」ことがわかる安心感。

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 駅の北も南も畑。これはアブラナ科らしきこの葉は、キャベツか。土壌が豊かとは思えなかった。

 

 乗り物の話は、今回でおしまい。次回からは食べ物の話を、ちょっと。