1278話 つれづれなるままに本の話 3

 長崎出島

 

 

 江戸時代の外国語学習について調べてみたくなった。オランダ語蘭学関連の資料はいくらでもある。大阪の適塾オランダ語を猛勉強した福沢諭吉は、横浜で外国人にオランダ語で話しかけても通じず、「あああ、オランダ語を学ぶなんて、無駄な時間を過ごした。英語を学んでおけばよかった」と悔やんでいる。『福翁自伝』に出てくる有名なエピソードだ。この本は、日本人の異文化接触の記録としても、出色だと思う。

 江戸時代は通訳を通詞と呼んでいた。少し調べて「ほ、ほー」と思ったのは、長崎奉行の管理下にある通詞のなかに、タイ語通詞がいたことだ。アユタヤ帰りの日本人が通詞になったというのだが、貿易は中国語でやっていたと思っていたから、驚いた。そして、通詞というのは家業であって、伝統芸能や伝統工芸のように一子相伝だったということだ。タイ語は、「タイ語通詞の家」だけで子に教授されるというものだった。幕末になると、適塾のように、オランダ語を不特定多数に教えるシステムができてきた。

 黒船が来たときの通訳は英語を使ったはずで、幕末の英語学習史を知りたくなった。やはり、英語関連の資料は多い。いろいろと資料に当たっているときに、1848年に日本に密入国したアメリカ人ラナルド・マクドナルドのことを知った。ネイティブ・アメリカンの血が入っている彼は、自分のルーツは日本にあると思い込み、どうしても日本に行ってみたかった。その当時、密入国するしか日本に渡る手段はなかった。

 密入国して、「漂流者」を装って自首したが、牢獄で日本人に英語を教えることになった。英語を母語とする者として、日本最初の英語教師である。彼のことを知りたくて、吉村昭『海の祭礼』を読んだ。幕末の外国人ということで、シーボルトのことも知りたくなったので、やはり吉村昭の『ふぉん・しいほるとの娘』を読んだ。ドイツ人だがオランダ人に成りすまして日本にやって来た医師フィリップ・フォン・シーボルト(1796~1866)とその娘楠本イネの物語だ。700ページを超える厚い本の2巻本だが、小説を読まない私でも興味深く読んだ。シーボルトの娘と孫娘の話を中心にしているが、ふたりの息子、長男のアレクサンダー、次男のハインリヒのこともちょっとでてきた。

 ドイツ人のシーボルトは、オランダ人と偽ってまでしてなぜわざわざ日本に行ったのかと考えていたら、ドイツ人の海外旅行史を調べたくなった。民族学や地理学はドイツで生まれた。多くの植民地を持っているイギリスやフランスではなく、ドイツで「異国・異文化」を学ぶ学問が誕生した理由はどこにあるのだろう。ワンダーフォーゲルユースホステル運動なども、ドイツで生まれている。そういう疑問を抱いているときに、ドイツに留学経験のある東北大学准教授山田仁史さん(宗教学、文化人類学)に会った。知識の幅が広い尊敬する研究者だ。私の知りたいことを伝えると、山田さんは即座に、「ぴったりの、おもしろい本がありますよ」と文献を紹介してくれた。『黄昏のトクガワ・ジャパン シーボルト父子の見た日本』(ヨーゼフ・クライナー、1998)だ。すぐさま読むと、私の好奇心にまさにドンピシャリの内容だった。ドイツの大学には「旅学」という研究分野があって、「旅はとにかく物を買い集めることである」と教えていた。博物館の思想である。だから、シーボルトは膨大な資料を日本で買い集めたのだ。大森貝塚の発見者としても有名なアメリカ人動物学者E.S.モースも、日本で膨大な雑貨を買い集めて博物館の収蔵品になった。モースの著作は、私の愛読書である。

 今、アマゾンでヨーゼフ・クライナーの著書を調べていたら、『ケンペルのみた日本』があった。長崎出島に滞在したこともあるドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペル(1651~1716)の話だ。おもしろそうだ。読みたいが、読む順番を待っている本が山になっているから、今はアマゾンをしない。

 シーボルト関連書を読んでいて思い出したのは、やはり長崎のトーマス・グラバー(1838~1911)とその家族のことだ。トーマスが、五代友厚に紹介された日本人女性と結婚して生まれた息子の倉場富三郎(1871~1945)の、悲劇的な生涯も興味深い。