1280話 つれづれなるままに本の話 5

 日本を旅したチェコ人 その2

 

 

 オーストリア・ハンガリー帝国の旅行者が書いた『ジャポンスコ』の話を続ける。

著者ヨゼフ・コジェンスキーは、日本旅行の便宜をはかってもらおうと、帝国ホテルのなかにあるオーストリアハンガリー大使館を訪問した。日本について知りたいことが数多くある著者を助けたのは、日本に詳しい書記官ハインリッヒ・シーボルト(1852~1908)だった。あの、シーボルトの次男が、コジュンスキーの情報源だったのだ。

 父のフィリップ・シーボルト(1796~1866)は、1823年来日し、かのシーボルト事件で1830年に日本を追放された。再来日を許された1859年、長男アレクサンダー(1846~1911)を伴って日本にやって来た。父はすぐに帰国したが、アレクサンダーは日本に残り、イギリス公使館の通訳となり、英語にも磨きをかけた。その当時、幕府側で英語ができたのは森山栄之助(1820~1871)ほか数名で、森山は日本に密入国したアメリカ人ラナルド・マクドナルドの教え子だ。

 水戸藩最後の藩主徳川昭武は、1866年、将軍慶喜の名代としてパリ万博とヨーロッパ各国訪問団の団長となって日本を出る。この訪問団の会計係りは渋沢栄一で、通訳など世話役にアレクサンダーが加わっていた。そうと知って、すぐさま『青年・渋沢栄一の欧州体験』(泉三郎、祥伝社新書、2011)を読んだ。

 この訪問団がヨーロッパ滞在中に徳川幕府は消滅し、団員はすぐに帰国したが、アレクサンダーはヨーロッパに残った。父フィリップが死んだのは1866年だが、生前ヨーロッパで再会することはできなかった。

 明治になった1869年、アレクサンダーは弟ハインリッヒを伴って再び日本に向かった。1870年以降、アレクサンダーは明治政府の役人になった。弟ハインリッヒはオーストリア・ハンガリー帝国大使館職員になり、同時に考古学や書画骨董の研究者にもなる。同じ時代の東京で、同じ分野の研究をしていたのが、E.S.モース(1838~1925)である。

 コジュンスキーの旅行記に、こういう記述がある。

 「クーデンホフ・カレルギー伯爵は東京にある大使館の官房長である。美しい日本女性と結婚したいとの彼の思いは、本国の高官を困惑させた」

 大使館の上司が、日本の女性と結婚したがっているというのだが、もちろん、「ああ、あの話か」とすぐにわかる日本人は少なくないはずだ。旅行記には「官房長」となっているが、その人物は1892年以降、駐日大使だった。クーデンホフとカレルギーというふたつの姓を合体させた姓を名乗っているので、この人物の正式な名前は、ハインリッヒ・クーデンホフー=カレルギーである。恋した日本人女性とは青山みつで、結婚してミツコ・クーデンホフ=カレルギーとなる。

 外交官永富守之助は、ドイツ滞在時にハインリッヒとみつの息子リヒャルト・ニコラウス・エイジロウ・クーデンホフ=カレルギー、日本語名青山栄次郎(1894~1972)と出会い、親交を深める。永富は鹿島組の社長の娘と結婚し、鹿島守之助となり、1938年鹿島組社長となる。『クーデンホフ光子伝』(木村毅)が1971年に鹿島出版会から出版されたのはそういういきさつがあったからで、鹿島守之助とNHK会長前田義徳の深い関係から、1973年と87年に、吉永小百合を主役に光子関連の番組を放送している。私が記憶していたのは、1970年代初めにこうした広報活動があったからだろう。

 アジア雑語林でプラハの話を書いているときに、光子関連の番組「吉田羊、プラハ・ウィーンへ・・・ヨーロッパに嫁いだなでしこ物語」(2019.2.3 読売テレビ)が放送された。この番組は見たが、だからといって関連書に手を伸ばすことはなかった。