1287話 スケッチ バルト三国+ポーランド 6回

 

 女の書き手

 

 もうだいぶ前からだが、旅の本と言えば、食べ歩きや買い物の情報と写真やイラストを満載したものが多く出版されている。その書き手はほとんど女だ。そういうたぐいの本と私の相性は悪いが、読んで参考になる本の書き手もまた女が多いことに気がついた。前回書いた『リガの犬たち』はスウェーデン語からの翻訳だ。前々回紹介したマルティン・ベックシリーズの『笑う警官』は、日本では1968年に英語版から翻訳出版されているが、2013年に『リガの犬たち』と同じ柳沢由紀子さんがスウェーデン語から翻訳した新訳版が出版されていると、たった今知った。スウェーデンを本で知ろうという人は、彼女の手による翻訳書をまとめ読みすることになるだろう。

 ついでに今、柳沢由美子翻訳リストを見ていたら、小説をほとんど読まない私が知らなかっただけで、大変有名な翻訳家だとわかった。南アフリカノーベル賞作家ネディン・ゴーディマーの本や、アリス・ウォーカーの『カラー・パープル』も手掛けていて、おお、私も読んだことがある「おばちゃま」シリーズ(ドロシー・ギルマン)も彼女の翻訳だったか。でも、これは私には駄作。この「おばちゃま」シリーズ、別名ミセス・ポリファックス・シリーズは、ひょんなことからCIAの諜報員になったおばちゃまが世界各地に出かけるというもので、007のアメリカおばちゃま版。

 考えてみれば、イタリアの本をまとめ読みしていたときに出会ったのが、須賀敦子と内田洋子。このアジア雑語林のためにイタリアの資料を読むという目的でもなければ決して手にしない本だが、この偶然の出会いを楽しんだ。イタリアに持って行った本のなかの2冊がこのふたりの本で、帰国後もまとめて読んだ。

 プラハの本では、田中充子『プラハを歩く』、北川幸子『プラハの春は鯉の味』、大鷹節子『私はチェコびいき』などが私にとっても重要資料だった。大鷹の父小野寺信は1935年から38年までに駐在武官としてラトビアの公使館に赴任していて、娘節子も同行している。小野寺信と入れ替わるように、そのすぐあと、1939年にリトアニアカウナスの日本公使館に赴任してきたのが、のちに「命のビザ」で知られる杉原千畝である。大鷹節子の母小野寺百合子は、ムーミンの翻訳者として知られ、戦前のバルト海周辺国での生活を書いた『バルト海のほとりにて』の著者でもある。節子の夫大鷹正は、元駐チェコスロバキア大使。夫の兄弘もやはり外交官で、その妻は大鷹淑子(旧芸名李香蘭)。

 そしてラトビア関連の本では、黒沢歩の『木漏れ日のラトヴィア』、『ラトヴィアの蒼い風』というエッセイ集があり、同じ黒沢歩翻訳の『ダンスシューズで雪のシベリアへ』を今読んでいるところだ。ロシアによってシベリアに強制移住させられたラトビア人たちの物語だ。

 黒沢さんは、1991年にロシア語を学ぶためにモスクワへ留学し、1993年からラトビアのリーガで日本語教師をやりつつ、ラトビア大学でラトビア文学の研究をした。2009年帰国。

 同じような経歴の日本人が、世界各地で生活していることだろう。長く現地に滞在すれば、その国のことを深く知り、きちんとした文章で表現できるわけではないということはよくわかっているから、自分の滞在経験をしっかり書いてくれた文章に出会うと、ありがたいと思う。例えば、『木漏れ日のラトヴィア』(新評論、2004)で、リーガのBrivibas(ブリビーバス)という通りのことを書いている。私はよく歩いたし、トラムやバスでもよく通った広い道路だ。地図でも街角の道路標識でもよく見た道路名だが、翻訳すれば「自由通り」という意味だと初めて知った。この通りの解説はこうだ。

 18~19世紀の帝政ロシア時代には「アレキサンダー三世通り」と呼ばれていた。1918年の独立期に「自由」を意味する名がついたが、1940年にソ連に併合されると「レーニン通り」となり、その1年後にナチスによる占領で「ヒトラー通り」になった。1944年にふたたびソ連に併合されると、また「レーニン通り」に戻り、その起点にレーニン像が建てられた。1991年の独立で、ラトビアは自由になり、レーニン像は撤去され、通りの名もBrivibas(自由)にまた戻った。

 1本の通りの名前を説明しているだけで、ラトビア近現代史がわかってくる。私には買い物ガイドなどより、こういう情報の方がよっぽどありがたい。

 

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  ブリビーバス通りには、この建物があり、看板に近づくと・・・・

 

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 看板の英語は、"ExhibitionーHistory of KGB Operation in Latvia"

 悪名高きKGB本部だったことがわかる。ソビエトが気に入らないラトビア人はここに連行され、あらゆる拷問を受けた。現在はKGBの資料館として公開しているというので行ってみると、閉鎖されていた。閉鎖の理由は不明。

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 ちなみに、こちらはエストニアのタルトゥの元KGBビル。英語表示は、"KGB CELLS MUSEUM"  直訳ならKGB監禁室博物館。開館日と滞在時期が合わず、入れなかった。