1403話 食文化の壁 第1回

  日本料理の壁 

 

 かつて、日本文化特殊論というのが盛んだったことがある。日本語は世界でもっとも難しい。そういう難しい言語をあやつる日本人は優秀であるといった論理で、日本人の優秀性を賛美しようとするような主張だった。その後、こういう主張は衰えるどころか、テレビでは依然、日本賛美番組が盛んだ。「日本にこういう欠点がある」などと言おうものなら、ネトウヨあたりが「売国徒!」と叫ぶご時世だ。

 日本文化特殊論が学問的に語られたことがある。日本料理は、油をほとんど使わない。スパイスをほとんど使わない。味付けは醤油に頼りすぎている。魚を生で食べる。こういう料理はけっして国境の壁を超えないという理論だ。1970年代まで、外国に日本料理店はあまりなく、しかも客のほとんどは日本人か日系人か日本に長期滞在した経験者たちだった。

 アメリカで日本料理が注目されるのは、1977年の「マクガバン・レポート」が「アメリカの食事目標」を掲げてからだ。健康的な食生活を送るには、脂質、塩分、糖分などを減らす食事で、それは日本料理だという報告から、「日本料理は健康にいい」というイメージができあがっていった。1980年代のエスニック料理ブーム以後、日本料理が、とくにすしが広く食べられるようになり、今はラーメンもブームになっている。

 外国人にとって、高くそびえる日本料理の壁、日本の食材の壁は何だろうか。かつては、刺身、すしといった生魚だったが、そのハードルはすでにこえた。ただし、サーモンや白身魚の壁は低いが、サバ、イワシなどの青身魚の生はハードルが高い。日本人でも好き嫌いの差が大きい納豆、クサヤ、塩辛、ホヤ、トロロイモなどを別にすれば、私はざるそば、豆腐(冷ややっこ、湯豆腐)、コンニャクなどが高い壁だろうと思った。味が単調とか、食感が気持ち悪いという理由が想像できる。こうしたことを考えるとき、「外国人」をどういう人たちと想定するかのよってだいぶ違う。タコが嫌いな外国人はある程度いるが、地中海地方の人たちはタコを好んで食べる。トンカツは、イスラム教徒もユダヤ教徒も口にしない。だから、「一般的な外国人」を想定することは難しい。

 日本訪問者が増えるにつれて、外国人が口にする食べ物の幅が広がっていった。その最後の砦だと考えられているのが、生タマゴだ。生タマゴにはサルモネラ菌があるということで、アメリカのレストランでは生タマゴを出すことが禁止されている。一部の香港人を除いて、中国人はかつて生タマゴを口にしなかった。訪日中国人の食事を取り上げたテレビ番組では、すき焼きを食べるとき、中高年は生タマゴを拒絶するか、タマゴを鍋に割り入れる。若者たちは、日本人と同じように肉を生タマゴにつけて食べていた。日本料理に限らず、外国の料理をおもしろがって食べたがる好奇心いっぱいの若者たちは、生タマゴの壁を少しずつ越えつつある。

 すでに書いたことがあるこの結論で終わりだと思っていたのだが、決定的な事実を思いついた。中国、韓国、日本など東アジアの人々を除くと、日本の食文化に慣れていない外国人は、飯をそのまま口に入れるのが苦手なのだ。西洋人の旅行者が日本で豚肉のショウガ焼き定食を食べたとする。日本に慣れている人なら日本人と同じように食べるが、日本料理をあまり食べたことがない人だと、茶碗の飯に醤油をかけたがる。「だって、味のない食べ物を食べるのは嫌だ。お前だって、ゆでたジャガイモに味をつけて食べるだろ」と言われたことがある。東アジアの人間は、白飯にも味はあると認識しているのだが、それ以外の外国人は、白飯を「味のない料理。味付けしていない料理」だと認識している。

 東アジアだけでなく、東南アジアも南アジアにもアフリカにも、コメを食べている人たちがいくらでもいるじゃないかと反論したくなるだろうが、広い意味での「汁かけ飯」文化圏では、皿の飯に汁をかけて食べる。おかずに汁気がある限り、基本的に、白飯を口に入れ、おかずを口に入れて・・、という食べ方をしない。カレーのように、白飯を汁で味をつけて食べる。

 もち米が常食のタイの北部や東北部などでは、もち米を蒸した飯(おこわ)をおにぎりくらいのかたまりを左手に持ち、右手でひと口大にまるめて食べる。「汁かけ飯」文化圏ではないよなあなどと思いつつ、タイ人の食事風景を眺めていたら、汁つけ飯だとわかった。右手で飯を丸めると、煮汁に少しつけて口に入れる。焼き魚や揚げ物の場合は、おかずをちょっとちぎって、飯とともに口に入れる。ニワトリ肉のかたまりにかぶりつくことはなく、肉片をつまみ、握った飯にのせて食べることが多い。

 東アジアが飯とおかずを別々に口に入れて、口のなかで混ざり合う口中混合であるのに対して、それ以外のアジアやアフリカでは、口に入る前の飯に味をつける口前混合なのである。私はおこわが大好きだからバクバク食べるのだが、タイ人は飯に味をつけて食べている。

 だから、日本料理の最大の壁は、もしかして白飯かもしれないと思うのである。