1408話 食文化の壁 第6回

 外国料理の壁 甘さは障壁か

 

 タイ料理や韓国料理で「嫌だな」という味は辛さではなく、甘さだ。西洋人から「日本の料理は甘い」と指摘されることがあるが、日本も古くから料理が甘かったわけではない。サトウキビから砂糖を取り出すのは、西洋の植民地になってからだ。それ以前からヤシから砂糖を作る技術は存在していたが、手間がかるので、祭りなど特別なときの甘味料だった。テンザイから砂糖を取り出す技術の確立もかなり遅く、テンサイが原料の砂糖が量産されるようになるのは19世紀に入ってからだ。

 世界のほとんどの地域で、甘味の元はハチミツや果物だった。地域によっては、麦芽を利用した水あめも加わる。「うまい」は「あまい」と起源が同じ言葉だ。ヒトという動物は、甘ければ、うまいと感じるのだ。だから、砂糖が自由に手に入るようになると、東アジアや東南アジアでは料理が甘くなり、西洋や西アジア、南アジアでは菓子がより甘くなった。

 さて、日本ではどうだったかという話だ。

 「佃煮って、いつから甘くなったんでしょうかね」

 江原絢子(東京家政学院大学名誉教授)さんにそういう質問をしたことがある。

 「佃煮が生まれた幕末では、甘くないでしょうね。甘くなるのは、明治になって、だいぶたってからだと思います」

 ということだった。つまり、魚の煮つけのように、醤油、酒、みりん、たっぷりの砂糖で甘露煮のようにするというのは、かなり後の時代になってからだとわかる。それが、いつか考えてみる。

 江戸時代、日本には2種類の砂糖があった。四国や奄美諸島琉球などで生産された砂糖とオランダが長崎に持ち込んだ砂糖だ。したがって、日本には砂糖はあったが、特別な人だけが口にできる甘味料だった。ただし、長崎出島関連の資料を読んでいたら、砂糖の裏の歴史がちょっとわかった。オランダ人は輸出品としてインドネシアの砂糖を持ち込んだが、それは表の商売で、個人的にこっそり砂糖を持ち込んで、長崎で売ったらしい。使い道は、遊女の揚代や身請け代金だったという資料もある(例えば、『「株式会社」長崎出島』など)。金本位制ならぬ、砂糖本位制というか、モノとヒトの物々交換だったわけで、こうした「裏の砂糖」が長崎など九州に出回ったので、九州の砂糖事情は日本のほかの地域とはちょっと違うようだ。「江戸後期の料理は甘くなった」という説を唱えている人は少なくないが、それは江戸や大坂などの比較的富裕層の話で(職人は貧乏人じゃない)、「江戸時代の食」という場合、江戸の事情しか書かないという態度に大きな問題があると思っている。江戸時代にも当然、農山村島々もあるのだ。

 日本の料理が甘くなっていくのは20世紀に入ってからだ。19世紀末、日本は植民地台湾で本格的に製糖事業を始める。1900年の台湾製糖(台糖)創立以降、次々に製糖会社が参入し、大量の砂糖が日本に運ばれた。砂糖が安くなるのはそれ以後だ。ただし、明治に入ってからでも、砂糖を日常的に使っていたのは都市住民だけで、農山村離島や貧民層では、砂糖はあいかわらず貴重品だったと思う。時代はやがて戦時体制下に入り、戦中戦後の食糧難時代を経て、砂糖は誰でも自由に買うことができる甘味料となった。1950年代後半あたりからだろうか。

 日本各地に残る「昔ながらの料理」に砂糖を大量に使うのは、砂糖が貴重品だった時代の名残りだ。東日本に多いのだが、茶碗蒸しや納豆に砂糖を入れる地方はいくつもある。北海道の赤飯は、甘納豆を入れるので甘い。料理に砂糖を大量に入れれば「上等!」という認識が今も根強い。

 私自身の体験では、高校生だった1960年代末、父の故郷である岩手にひとり旅をした。叔父の家にやっかいになった日の夕食、小皿の塩辛に小さじ1杯の砂糖がかかっていた。大歓迎を意味する厚意だろうとは理解できたから、無理して胃袋に流し込んだ。すると、「好きなんだね、よかった。はい、おかわり」ともうひと皿出てきた。ああ。

 日本料理の甘さは、私にとっては障壁だが、外国人にとってはちょっとした段差程度かもしれない。アメリカのケチャップやテリヤキソースなど、外国にも甘い調味料はいくらでもある。タイ人は麺類に砂糖をぶち込む。カナダではステーキなどにメープルシロップをかける人がいる。インド料理にも砂糖を入れることがあるという話はすでに書いた。

 タイには甘いマヨネーズと、「日本風」と表示された日本で売っているのと同じマヨネーズがある。ネット情報を探ると、台湾や中国や東南アジアのマヨネーズも甘いらしい。オーストラリアで売っているキューピーマヨネーズも甘いという情報を書いているのが、次のブログ。

https://www.muffintop-days.com/archives/9510

 なるほど、だから甘いのか。