1414話 食文化の壁 第12回

 外国料理と初めて出会う

 

 いままで私が描いてきたのは、食における異文化衝突を分析したらどうなるかという想像あるいは感想である。「日本人は、この手の料理が苦手だろうな」と、想像して書いたのだが、実際に感想を書き残した人はいくらでもある。

 幕末に外国に出かけたサムライたちの旅日記のなかから、食事に関する部分だけ抜き出した『拙者は食えん』(熊田忠雄、新潮社)のことは、2011年にこの「アジア雑語林」すでに書いた。

https://maekawa-kenichi.hatenablog.com/entry/20110727/1311737671

 2011年のこのコラムでは書かなかったのだが、この本はあまりおもしろくなかった。著者の責任ではない。サムライたちは、私が予想したほどには外国の食べ物に強烈な拒絶反応を示していないのだ。西洋料理を口にした当初は、もちろん「うんざり」なのだが、ひと月もすれば、なんとか食べている。「食えるものはこれしかない」と、あきらめの境地なのだろう。こういう点は、食生活に宗教上の制約がない日本人は、雑食度が高い。

 西洋料理に出会ったサムライとは逆に、日本料理と出会ったアメリカ人はどう反応したのかというテーマで書いた本が、『海を渡ったスキヤキ』(グレン・サリバン中央公論新社)だ。著者はアメリカ人の翻訳家であり、日本文化研究者。この本は著者が日本語で書いたものらしい。

全体的な話をすれば、この本は散漫気味で、日本料理と出会ったアメリカ人の記述は最初の部分が中心で、全体的にはアメリカで日本の料理を作った日本人の話になっているのが残念だが、参考になる記述はある。

 歴史的に古い記述は、マシュー・ペリー提督の1854年の感想は、もてなしには感謝するが、我々の食欲を満たすものではない、というものだ。

 1879(明治12)年、グラント前大統領が日本に来た。その旅行記『グラント将軍と世界一周旅行』が出版されている(日本語訳もある)。将軍は、日本料理をどう表現しているのか。部屋の内装も、料理の盛り付けも食器も美しいと書いてあるが、味については記述がない。量が足りなかったわけではないが、ちまちまとした小皿が何枚も続くだけで、「でかい肉がドカーン」と食卓に運ばれてこない食事は、精神的な満腹感がないということなのだろう。

 食文化を描くこの本に、想像していなかった日本人の名が出てきた。東郷平八郎だ。日露戦争の日本の勝利、日本海海戦で大勝利を収めた東郷平八郎の名はアメリカにも知れ渡り、食文化にも影響を与えたという。小柄な日本の兵士は、何を食べてあれほど強くなったのか? これが日本料理に対するアメリカ人の興味だ。といっても、アメリカ人の多くの関心ではなく、料理学校や今でいう食育に関係する人々の関心で、肉を食べないのは禁欲的に思えたらしい。バターやラードなど油脂の少ない食生活は、健康にいいという感想は、20世紀の初めに、すでにアメリカにあったらしい。

 興味深い記述は、アメリカ英語の”Japanese Restaurant"は、第2次世界大戦が終わるころまで、日本料理店の意味ではなく、「日本人が経営するアメリカ料理店」の意味だったという。日本人がアメリカ人相手に日本料理を出す時代ではまだなかったのだ。

 記述が雑多なので、雑学的資料が多い。例えば、1960年代のアメリカでは、”sukiyaki”という語は、料理の名前だけでなく、「日本的な」「日本の」といった意味でも使われたという。”sukiyaki table”とは、現在、コー―ヒーテーブルとかローテーブルと呼んでいるソファーの前に置いている低いテーブルのことだったという。七輪を”hibachi “というのは、アーサー・ビナードの本で、すでに知っていた。

 この本で欠けているのは、1950年代からの、アメリカ人の日本趣味、禅、武士道と言ったことから、マクロバイオテック、玄米食ベジタリアン、豆腐と続く志向。ビートからヒッピー、そして漫画やアニメで見る日本の食べ物へと続く流れである。

 

 今回で、食文化の話を終える。いずれまた、何かの話を書くまで、ちょっと休息。

 こういうご時世だから、買ってあるがまだ読んでいない本の山を切り崩しているうちに、知りたいテーマが出てきて、アマゾンをして、また本がたまる。だから、いつまでたっても天下のクラマエ師の新刊に至らない。というわけで、しばらく読書生活に入ります。